アルノルト・シェーンベルクってどんな人?その生涯や性格は?

出典:[amazon]アルノルト・シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」 Op.5/ヴァイオリン協奏曲 Op.36

アルノルト・シェーンベルクという作曲家をご存知ですか?シェーンベルクの名前は、クラシック音楽好きでもない限り、おそらくご存知の人は少ないと思います。シェーンベルクは、19世紀から20世紀にかけて活躍し、その後のクラシック音楽界に多大な影響を与えた人物です。シェーンベルクは、生涯をかけて新しい音楽を模索し続けた人物といえるでしょう。今回は、シェーンベルクの人生に迫ってみたいと思います。

シェーンベルクの生涯

シェーンベルクの生涯についてご紹介します。シェーンベルクは19世紀から20世紀にかけて、時代の先端を行く音楽家であったと同時に、2つの大きな戦争を生き抜いた人物でもありました。その経験は、彼の晩年の作品に強い影響を与えています。

生い立ち

シェーンベルクは1874年オーストリアのウィーンにて、3人兄弟の長男として生まれました。両親ともに音楽の経験はありませんでしたが、シェーンベルクは8歳でヴァイオリン、その後独学でチェロを学び始めます。15歳のときに父親が他界したのを機に、生活のために銀行で働き、同時に作曲も学びます。

21歳になると合唱指揮者を任されるようになり、これを機に本格的に音楽活動を行うようになりました。初期の代表作には「浄(きよ)められた夜」(浄夜)やシェーンベルク唯一の交響詩「ペリアスとメリザンド」などがあり、この頃はまだ無調音楽や十二音技法は完成されておらず、ブラームスやワーグナーなど後期ロマン派の影響を強く受けた作品を作曲していました。また、シェーンベルクが27歳で作曲した「グレの歌」は、後期ロマン派の集大成とも称される一方、新しい時代の転換点を迎える象徴的な音楽とも考えられています。

無調音楽の模索

20世紀に入ると、シェーンベルクは新たな音楽への探求が深まります。その第一歩が「無調音楽」の試みです。ロマン派までの音楽は、メロディーの美しさをひたすら追求する音楽でした。しかしシェーンベルクは、「調」という音楽の構造自体の変革を求めるようになります。

1908年に作曲された「弦楽四重奏曲第2番」は無調音楽への挑戦の第一歩と言われており、その後の「3つのピアノ曲」「5つの管弦楽のための小品」や1911年に発表した「6つの小さなピアノ曲」でははっきりとした無調音楽が展開されています。

また、この時期を代表する作品に「月に憑かれたピエロ」(1912年)があり、ラヴェルやストラヴィンスキーらに強い影響を与えました。無調音楽の発表当初は、聴衆から酷評を受けてウィーンから追放されたシェーンベルクでしたが、演奏の機会が増えるとともに、無調音楽の試みも少しずつ受け入れられるようになりました。

十二音技法の確立

1910年代に入ると、シェーンベルクは戦争へ召集されてしまいます。その頃には自身が確立した無調音楽が聴衆に受け入れられるようになっており、シェーンベルクは新たな音楽の確立を模索し始めます。そこで考えだされたのが十二音技法です。十二音技法とは、「ドから次のドまでの12の音を均等に扱う」という技法ですが、非常に複雑な音楽理論のなので、解説は専門書に任せることにします。

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十二音技法が本格的に取り入れられた作品としては、1920年代に作曲された「5つのピアノ曲」作品23があり、以降、十二音技法を駆使した作品を積極的に発表することになりました。また十二音技法は、シェーンベルクの弟子であるヴェーベルンやベルクによって更に発展し、現代音楽の礎とも言える技法の一つとして確立されました。

アメリカへの亡命から晩年

1933年頃ナチスドイツから逃れるために、シェーンベルクはフランスにしばらく滞在した後にアメリカへ亡命します。アメリカで市民権を得たシェーンベルクは、南カリフォルニア大学やカリフォルニア大学ロサンゼルス校などで教鞭をとり、音楽活動を続けます。教え子には「4分33秒」で知られる、作曲家のジョン・ケージもいたそうです。音楽活動を精力的に続けながら、教育にも熱心だったシェーンベルクは、多くの著作を残し後進の指導も努めました。

1940年代になると交友関係も広がり、ドイツの作家トーマス・マンや哲学者のアドルノなどとも親交を深めました。最晩年には自身がユダヤ人であったことから、ワルシャワ強制収容所のホロコーストを題材にした「ワルシャワからの生き残り」を発表。十二音技法が存分に発揮された傑作として、現代音楽の代表作の一つとされています。

音楽や教育、著作などで多くの業績を残したシェーンベルクでしたが、1951年に喘息発作のため76歳でこの世を去りました。

エピソード

シェーンベルクは、キリスト教では縁起が悪い数字とされる「13」にこだわりを持っていたことから、縁起を担ぐ人物だったようです。数字の「13」に対する恐れのことを「トリス・カイ・デカ・フォビア」というそうですが、皮肉なことにシェーンベルクの誕生日は1874年の9月13日で、亡くなったのは1951年の7月13日という「13」にまつわる日でした。そして存命中に「自分は76歳で死ぬだろう」と話していたそうで、事実シェーンベルクは76歳でこの世を去りました。76という数字も「7+6=13」になることから、なんとも不思議な偶然が重なりました。

また、親交のあったドイツの作家トマース・マンの作品『ファウスト博士』に出てくる人物像は、シェーンベルクがモデルとも言われています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回はシェーンベルクの生涯についてご紹介しました。シェーンベルクの音楽は非常に難解であり、理解が難しい作品が多くあります。ですが、歴史の大転換を果たしたシェーンベルクは、クラシック音楽のみならず、その後の電子音楽や現代音楽にまで強い影響を残しました。なかなか馴染みのない音楽が多いと思いますが、これを機会にシェーンベルクの作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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