アルトゥール・ニキシュってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調「運命」

ベルリン・フィルハーモニー初代首席指揮者ハンス・フォン・ビューローの後を継ぎ、ベルリン・フィルハーモニーの「第2の全盛期」を築いた偉大なる指揮者アルトゥール・ニキシュ。ニキシュは「指揮者は作曲家と同等の存在である」という信念のもと、指揮者による作品解釈の可能性を追求し、指揮者の地位向上に多大なる影響を及ぼした人物です。

また、バッハやベートーヴェンといった古典作品の指揮にとどまらず、ブルックナーやチャイコフスキーといった同時代の作曲家を積極的に世に紹介したのもニキシュその人でした。

アルトゥール・ニキシュの生涯について

ニキシュの生涯について解説します。偉大なる指揮者ニキシュは、幼少の頃から天与の才能を発揮しました。

神童現る

アルトゥール・ニキシュは1855年、オーストリア帝国領ハンガリー王国に生まれました。ドイツ=スラブ系の血を引く父は男爵家で会計士として働き、母はハンガリーの生まれです。ハンス・フォン・ビューローと同じく、音楽一家ではなかったものの、5歳でピアノを習い始めたニキシュは、幼少期より類い稀な楽才を発揮します。

幼少期のニキシュのエピソードとしては、オーケストリオン(自動演奏楽器)から流れるロッシーニの『セビリャの理髪師』や、マイアベーアの『悪魔のロベール』を1度聴いただけで完璧に再現したという話が残されています。そしてわずか8歳でピアノリサイタルを開き、それと並行して、ソナタやカルテットといった作曲の勉強を始めたのもこの頃でした。

11歳でウィーン音楽アカデミーに入学したニキシュは、ピアノ、ヴァイオリン、作曲を学び、その卓越した才能が認められ、入学後まもなく上級クラスへの編入が許可されます。上級クラスでも優秀な成績を収めたニキシュは、13歳にして学内作曲部門第1位、ヴァイオリン部門第1位、ピアノ部門第2位という輝かしい成績を獲得し、将来有望な音楽家として同音楽院を卒業しています。

ヴァイオリニストとしてキャリアを始める

1873年、優秀な成績でウィーン音楽学校を修了したニキシュは、翌1874年、早くもウィーン宮廷歌劇団の第1ヴァイオリン奏者に抜擢されます。この頃はフランツ・リストをはじめワーグナーやヴェルディ、ブラームスといったロマン派音楽全盛期の時代であり、ニキシュ
自らも彼らの指揮のもと多くの演奏をこなします。

しかしニキシュにとって、楽団員としての生活は性に合わないものでした。ニキシュは演奏会をしばしば無断欠席し、ときには自らのポケットマネーから出演料を払い、代役を立ててまで出演を拒んだと言われています。もっとも、そのためにお金に窮することもあったようですが・・・。

ニキシュの姿を見かねた宮廷楽長フェリックス・デッソフは、ニキシュにライプツィヒ市立劇場での合唱指揮者の仕事を持ちかけます。そしてこの提案を快諾したニキシュは、ウィーンを離れライプツィヒへと向かい、ここからニキシュの本格的な指揮者人生が始まります。

名門オーケストラを渡り歩く

1878年、ライプツィヒ市立劇場の合唱指揮者に就任したニキシュは、その後就任1ヶ月で楽長に任命され、同年2月に鮮烈なデビューを飾ります。ニキシュの初演は大成功を収め、その演奏は「オーケストラと舞台は魔法にかかったようだ」と評されるほどでした。

翌1879年、ニキシュは24歳の若さで楽団首席指揮者に抜擢されます。当時の楽団員からは「若すぎる」との反発を買い、ワーグナーの『タンホイザー』上演の際には、演奏を拒否される事態にまで発展したそうです。

ところが、ニキシュの音楽に対する姿勢や、楽団員に対する態度を目の当たりにした楽団員たちはすぐに考えを改め、本番では『タンホイザー』全曲を演奏したと言います。

10年にわたりライプツィヒで過ごしたニキシュ。その後ニキシュはボストン交響楽団(1889年から1893年)で4年間、ブダペスト王立歌劇場の首席楽長と渡り歩き、1895年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任します。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団時代のニキシュは、「ライプツィヒでもっとも人気のある人物」として熱狂的に迎えられ、同楽団との関係はニキシュが死去するまで続きました。

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ベルリン・フィルの首席指揮者として、そして晩年

ニキシュのキャリアにとって欠かすことのできないもう一つの関係といえば、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との繋がりです。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に席を置く傍ら、ハンス・フォン・ビューロー引退後のベルリン・フィル首席指揮者に任命されたニキシュは、ビューローの後を引き継ぎ「ベルリン・フィル第2の全盛時代」を築きあげます。

就任当初のニキシュは「気取り屋」や「派手好き」と酷評され、コンサートを開いても無料切符さえ完売しない、苦杯をなめる時代も経験したそうです。しかしその人気は徐々に拡大し、やがてベルリン・フィルはニキシュと共に世界を代表する管弦楽団へと発展します。

また当時のベルリン・フィルの演奏会には、チェリストのパブロ・カザルスやフリッツ・クライスラー、ヤッシャ・ハイフェッツといった才能溢れる演奏家たちが登場し、ニキシュの元で経験を重ねました。

ニキシュとベルリン・フィルハーモニーの関係は彼が亡くなる1922年まで続き、その伝統はウィルヘルム・フルトヴェングラーに引き継がれることになります。

性格を物語るエピソードについて

ニキシュのエピソードについて簡単に紹介します。ニキシュはどんな時でも、誰に対しても紳士然とした人柄だったそうで、多くの聴衆がニキシュの人柄に魅了されたと言います。

いつでも紳士

毛皮のコートをはおり、オシャレな金鎖でできた時計を身につけ、指揮台では象牙の指揮棒を自在に操るニキシュの姿は、まさに聴衆の憧れの的でした。一方で偉大な指揮者にもかかわらず、ニキシュは楽団員に対してはもとより、エレベーター・ボーイやファンに対して常に丁寧に、そして紳士的な態度で接したと伝えられています。そのような姿こそ、ニキシュが多くのファンを魅了した要因なのかもしれません。

無類のポーカー好き

紳士的でありながら、ニキシュには自由奔放な側面も伝えられています。ニキシュは無類のポーカー好きで、毎晩のようにポーカーに興じるのが彼の楽しみだったようです。そしてあまりのポーカー好きが高じて、時には演奏会で得た報酬を一晩で使い果たすこともあったとのこと。紳士の嗜みに熱中しすぎたのかもしれませんね。

ストをストップさせる

またライプツィヒ時代のニキシュには、こんな話も伝えられています。ある日、ライプツィヒ電気労働組合が労働条件に不満を募らせ、ストを起こした時のこと。そんな中、「ニキシュが心臓発作で倒れてしまい、停電により蘇生装置が使えない」という話が街に流れます。すると電気労働組はすぐさまストを中止し、ニキシュを救うための行動にでたという伝説があります。話の真偽はわかりませんが、ニキシュが広く聴衆に愛されていたことがわかるエピソードです。

ニキシュの死因は?

合唱指揮者としてキャリアを始めたニキシュの指揮者人生は、1922年にその幕を閉じます。1922年、ベルリン・フィルハーモニー在籍22周年を祝う祝賀会が行われた、わずか数日後の1月23日、突然の心臓発作により、ニキシュは帰らぬ人となりました。ニキシュ死去の訃報はすぐさまドイツ中に知れ渡り、「ベルリン新聞」「ドイツ一般新聞」他多くのメディアがニキシュの死を悼む追悼文を発表しています。

ニキシュの葬儀では、本人の意向によりユリウス・クレンゲルの『12のチェロのための讃歌』とワーグナー作曲『パルシファル』前奏曲が演奏されました。ニキシュの葬儀の際に演奏を指揮したのがウィルヘルム・フルトヴェングラーであり、ベルリン・フィルハーモニーの歴史は、フルトヴェングラーへと引き継がれることになります。

まとめ

今回は偉大なる指揮者アルトゥール・ニキシュの生涯について解説しました。ニキシュが抱いた指揮者としての信念や音楽に対する姿勢は、後世の指揮者のみならずクラシック音楽界全体に大きな影響をもたらしたと言っても過言ではないでしょう。そんなニキシュの演奏をお聴きになりたい方もいらっしゃると思います。音質はよくありませんが、youtubeで検索するとニキシュの演奏が出てきますので、もしご興味がある方はぜひ聴いてみてください。

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