ジョアキーノ・ロッシーニってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]Gioachino Rossini: Overtures

ジョアキーノ・ロッシーニ(以下ロッシーニ)は、18世紀後半のイタリアに生まれた、初期ロマン派を代表する作曲家です。ロッシーニの代表作には「ウイリアム(ギヨーム)・テル」や「セビリアの理髪師」などがあり、誰もが一度は聞いたことのある作品だと思います。また、料理好きな方は「〜のロッシーニ風」というメニューを見たことがあるのではないでしょうか。今回は音楽家であると同時に、大変な美食家でもあったロッシーニの生涯をご紹介します。

ロッシーニの生涯


ロッシーニは、1792年イタリアのペーザロに生まれました。父は食肉関連の検査技師を勤めるかたわら、アマチュア楽団のトランペット奏者として所属し、母は声楽を学んだオペラ歌手でした。

ロッシーニが6歳の頃に、トライアングル担当でこの楽団に参加したそうです。しかし当時のフランスに好感を持っていたロッシーニの父は、ヨーロッパ情勢の変化に伴い、オーストリア当局に投獄されてしまいました。

これを機に、母とともにボローニャへ出たロッシーニは、ボローニャで音楽を学び始めます。父がいない間は、祖母のもとに預けられたり、母がオペラ歌手として舞台に出るなどして生計をたてていたそうです。学校の音楽室に飾ってあるロッシーニの風貌は、丸々と太った巨漢ですが、幼い頃は「まるで天使のよう」と称されほどの美少年でした。

音楽学校で学び始めたロッシーニは、1810年に最初のオペラ・ブッファ「結婚手形」を作曲し、わずか18歳でオペラ作曲家としてデビューします。
※オペラ・ブッファとは18世紀前半にナポリで生まれたオペラ形式です。伝統的なテーマを扱うものではなく、同時代や身近なテーマをモチーフにした喜劇です。

その後も20歳から21歳にかけて「タンクレーディ」や「アルジェのイタリア人」などのオペラを発表し、大成功を収めます。そして24歳のときに作曲した「セビリアの理髪師」の成功によって、ロッシーニの名前はイタリアを越えてヨーロッパ各国へと広がりました。

1820年代になると、活躍の拠点をイタリアからパリへと移し、パリのイタリア座の音楽監督に就任するなどますます活躍の場を広めることとなります。1825年にはフランス国王シャルル10世の即位に合わせて作曲した記念カンタータ「ランスへの旅」が好評を博し、これによりシャルル10世から「フランス国王の第一作曲家」の称号を与えられ、それに伴い「終身年金」を約束されました。

その後1829年に代表作「ウィリアム・テル」を作曲しますが、この作品の成功を最後に、ロッシーニはオペラの作曲を辞めてしまいます。オペラの作曲を辞めたあとは、ロッシーニが心から愛していた美食への道を探求することになります。

44歳でパリの生活を終えボローニャへと戻ったロッシーニは、食の都ミラノに移り住みます。オペラの作曲を辞めてしまったロッシーニですが、ボローニャ音楽院の名誉会長に就任するなど後進の教育活動にも力を発揮しました。

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フランスからの終身年金や、音楽院の名誉会長として十分な収入があったロッシーニは、1850年代になると再度パリに戻り、自宅のサロンで友人たちに食事を振るまったり、毎週土曜日には「音楽の夜会」という小さな音楽会を開いていたそうです。その夜会には当時活躍していたグノーやサン=サーンス、ヴェルディやリストといった有名音楽家が参加していました。

晩年は食やサロンの開催など、自由気ままに人生を送ったロッシーニですが、1868年76歳でこの世を去りました。食への関心は生涯続いたそうで、「ロマンティックなひき肉」といった食材をテーマにしたユニークな音楽作品も残しています。

性格は?

ロッシーニの作品を聴くと、性格の明るさや陽気さがうかがい知れますが、音楽に対する尊敬の念を常に持ち続けていた人物でした。それがわかるのがベートーヴェンとの出会いです。ベートーヴェンはロッシーニのオペラをとても高く評価しており、またロッシーニ自身もベートーヴェンの芸術に対する崇高な精神や、孤独に音楽性を高めるその姿を尊敬していたそうです。

ロッシーニは、料理の名前を音楽作品にしてしまう気さくな一面もありながら、音楽への尊敬や畏敬の念を忘れなかった人物であったことがわかります。

死因は?

音楽活動と合わせて美食家としても有名だったロッシーニ。美食家が祟ってしまい、晩年は極度の肥満となり体調を崩すことも多くなりました。調べてみると、躁鬱病や慢性気管支炎、さらには直腸癌に罹り、心身ともに疲労がでていたそうです。最後は、直腸癌を手術したことで丹毒(溶連菌が原因)になりこの世を去りました。美食を追求し、肥満になったロッシーニですが、この時代の平均寿命から考えると意外にも長生きだったのかもしれません。

エピソード

若くして音楽界にデビューし、瞬く間に名前が広がったロッシーニですが、40代であっさりと音楽業界から去ってしまいました。その理由が美食の追求であったという説があります。作曲業をやめたのは、もちろん永続的な資産が約束されていたという面もありますが、トリュフを探すための豚を飼育するためだっ他のではないかという美食家ならではのエピソードが残されています。

まとめ

いかがでしたか?。今回はロッシーニの生涯をエピソードを交えながらご紹介しました。人生の早くからオペラ作曲家として活躍し、生涯で36曲のオペラ作品を残したロッシーニ。44歳で完全に作曲活動から引退した彼は、美食の追求に生涯を捧げた異例の人物です。また1960年代からはロッシーニの作品が見直されるようになり、埋もれていた数々の作品が今もなお発掘されています。これを機会に、有名な作品だけではなく、他のオペラにも触れてみてはいかがでしょうか。

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