ツェーザリ・キュイってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Piano Transcriptions

ツェーザリ・キュイ(以下キュイ)という人物の名前を聞いたことがありますか?もし聞いたことがある方は、かなりのクラシック通かもしれません。キュイはムソルグスキーリムスキー=コルサコフなどで結成された「ロシアの5人組」の1人であると同時に、軍人としても活躍した人物です。現在ではほとんど演奏機会もなく初耳の方も多いかもしれませんが、この記事を読んで、少しでも興味をもっていただけたら幸いです。

ツェーザリ・キュイの生涯


ツェーザリ・キュイの生涯をみてみましょう。生涯でかなりの作品を残しましたが、キュイにとって作曲活動は飽くまで「余技」だったようです。

幼少時代から語学の天才だった?

1835年、キュイはフランス人の父とリトアニア人の母の子としてポーランドのヴィリニュス(現リトアニア)に生まれます。父は軍人で、ナポレオンのモスクワ遠征にも参加した人物です。「ロシアの5人組」に参加したことから、キュイはロシア人かと思いきやフランス人だったことが意外ですね。当時のヨーロッパ情勢の影響と父と母が国際結婚だったため、キュイは幼い頃からフランス語、ロシア語、ポーランド語、リトアニア語の4ヶ国語を使いこなしたそうです。

幼少時代からピアノを習い始め、14歳で作曲を始めたキュイは、音楽理論を「ポーランドの国民音楽の父」と称されるスタニスワフ・モニューシュコに師事しました。
この頃はショパンの作品を学んでいたようで、ショパンシューマンなどのロマン派的傾向は生涯続くことになります。

軍人として大活躍

音楽家としては大きな功績を残していないキュイですが、「本職の」軍事関係ではロシアにおいて大きく貢献しています。1850年、陸軍工兵学校に入学するためにサンクトペテルブルクに赴いたキュイは、優秀な成績で学校を卒業し、卒業後は同校の助教授に就任します。築城学(堡塁学)を専門に研究したキュイは、ペテルブルクにあった3つの陸軍士官学校で長きに渡り後進の育成に務め、生徒の中にはニコライ2世などの皇族ロマノフ家の人々もいたそうです。この分野での業績が認められ、晩年の1906年には工兵大将の地位にまで上り詰めています。

ボロディンが化学の研究者だったのと同様に、キュイもまた音楽家以外の活動で名声を獲得したと言えるかもしれません。

バラキレフとの出会い

話を少し戻して、モニューシュコから音楽理論を学んだキュイに転機が訪れます。それは、1857年(資料によっては1856年とも)にバラキレフと出会ったことでした。バラキレフとの出会いによりいっそう本格的に音楽を学んだキュイは、1859年、管弦楽曲「スケルツォ」で作曲家デビューを果たします。音楽家としてのデビュー後はバラキレフやムソルグスキーらと「ロシアの5人組」を結成し、作曲家として活動を本格化します。

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室内楽や歌曲を多く残したキュイですが、なかでもオペラの作曲に熱心に取り組み、生涯で10曲以上の作品を残しています。残念ながら現代では演奏機会がありませんが、オペラ「マンダリーナの息子」(1859年)やプーシキン原作の「カフカスの捕虜」(1883年)、モーパッサン原作の「マドモアゼル・フィフィ」(1903年)などは少なからず成功を収めたそうです。

諸外国から評価を受けた晩年

辛口評論家として本国ロシアでは評判が良くなかったキュイですが、1880年代後半から90年代にかけてロシア以外の西側諸国で評価されるようになりました。1894年にはチャイコフスキーの急逝で空席となったフランス学士院の通信員となり、のちにフランス本国より、レジオン・ドヌール勲章が授与されています。

また、2年後の1896年にはベルギー王立文芸アカデミーの会員に選出されるなど、晩年は芸術評論の「重鎮」としてヨーロッパに受け入れられました。ベルギーでは自作のオペラが上演された経緯もあるので、以前から有効な関係ができていたのかもしれません。

1916年に失明したものの、口述により作曲を続け「余技」としての音楽を生涯続けました。そして2年後の1918年、脳卒中によってこの世を去りました。享年83歳でした。「ロシアの5人組」のなかでもかなり長命であったことが、多くの作品を残せた理由の一つかもしれません。

大作曲家をスランプに追い込んだほどの辛口批評家だった

音楽家として膨大な作品を残したキュイですが、評論家としての活動の方が活発だったようです。その標的は演奏会や音楽界、作曲家など多岐に渡り、辛辣な評論家として各界から恐れられていました。

チャイコフスキーの再演オペラ「オプリチニーク」を痛烈に批判したことは有名ですが、なかでも象徴的なのは、若きラフマニノフに対する批判です。

ラフマニノフが24歳で発表した「交響曲第1番」を聞いたキュイは、この作品に対し「地獄の音楽学校のために作曲されたエジプトの10の災いを描いた音楽」と罵倒しました。これにショックを受けたラフマニノフは自筆の譜面を引き裂き、大きなスランプに陥ってしまいます。

現在では「ピアノ協奏曲」と並びラフマニノフを代表する作品として親しまれていますが、ラフマニノフの存命中は2度と演奏されませんでした。ちなみに、この作品の初演を指揮したのはグラズノフで、一説によると初演が失敗したのはグラズノフの指揮の不備によるものだったとも言われています。

まとめ

いかがでしたか?音楽家としては「アマチュア」だったキュイですが、「ロシアの5人組」の発展に大いに寄与したのは間違いありません。評論が辛辣すぎてロシア本国では嫌われ者だったようですが、キュイが作曲したオペラ「カフカスの捕虜」は、西側諸国で上演された「ロシアの5人組」の最初のオペラとして記録に残っています。youtubeで探してみるとわずかながら演奏動画がありますので、これを機会にぜひ聞いてみてはいかがでしょうか。

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