ピョートル・チャイコフスキーってどんな人?その生涯や性格は?

出典:[amazon]チャイコフスキー:交響曲第4番/弦楽セレナーデよりワルツ、終曲[第2世代復刻版]

ロシアの作曲家として有名なチャイコフスキーは、バレエ音楽と言えばまず名前があがるような代表曲を作曲した音楽家です。チャイコフスキーの音楽家への道のりは珍しく、音楽家として活動を始めたのは20代半ばを過ぎてからでした。当時の有名な音楽家たちとは違った流れで音楽の道に進んだチャイコフスキーの、生涯や性格について深堀していきます。

ピョートル・チャイコフスキーの生涯

幼少期から晩年までを、節目ごとに簡単に紹介します。

法務省に就職

1840年に、鉱山技師をしていた父親のもとに生まれたチャイコフスキーですが、両親が楽器の演奏をすることができたため、幼いころから音楽に触れていました。しかし、音楽を仕事としている両親ではなかったことから、息子を音楽家にしようというつもりはなかったようです。

1850年にサンクトペテルブルクにある法律学校に入学すると、チャイコフスキーは合唱に出会い歌を学びました。1855年にはピアノと和声学を勉強しますが、1859年に学校を卒業すると、そのまま法務省に就職します。

辞職、音楽院に入学

1861年、ロシア音楽協会に出会うと、翌年には音楽を学び始めました。アントン・ルビンシテインというロシアの音楽家のもとで作曲を勉強し、ペテルブルク音楽院に入学、その後1863年に法務省を辞めていますが、この時すでにチャイコフスキーは23歳です。同年代の他の音楽家たちに比べ、遅いスタートとなりました。

音楽家としての活動を開始

1865年に音楽院を卒業すると、翌年から12年間モスクワ音楽院で講師として務めます。この時にお世話になったのが、アントン・ルビンシテインの兄弟の、ニコライ・ルビンシテインです。ニコライとは仲が良く交流がありましたが、1875年のピアノ協奏曲第1番を作曲した際には一時的に不仲になりました。

また、1868年にはロシア5人組と呼ばれる作曲家たちと知り合いますが、チャイコフスキーは距離を置いていたようです。メンバーは、ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフの5人とされていますが、実際は常に5人だったというわけではなかったとされています。

作曲に専念

1878年になると、講師を務めていた音楽院を辞め、作曲に力を入れました。しばらくの間は海外に長期滞在をしながら作曲をしますが、1885年にモスクワ郊外の村に落ち着きます。そして1893年、交響曲第6番の初演を自身の指揮で行うと、その数日後に突然亡くなりました。チャイコフスキーの死因については、たくさんの説があげられています。

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ピョートル・チャイコフスキーとはどのような人物なのか?

最初は音楽と関係のない道に進みながらも、現在では作曲家として有名になっているチャイコフスキーは、どのような性格だったのでしょうか。当時の残されているエピソードを知ると、チャイコフスキーがどのような人物だったのかが少しわかってきます。

作品の評価が気になるチャイコフスキー

現在では有名になっている代表作の中には、初演が成功しなかった作品がいくつかありました。チャイコフスキーはそれをとても気にする性格だったようです。例えば、現在バレエ音楽の代表的な作品になっている「白鳥の湖」ですが、作曲された当時の初演は失敗に終わっています。これに落ち込んでしまったチャイコフスキーは、長い間バレエ音楽は作りませんでした。

しかし初演失敗の理由は、実際は作品の問題ではなく、当時の演奏者や踊りに問題があったとされています。そのため、チャイコフスキーが亡くなった後に評価されるようになったこの作品は、現在もバレエ音楽の代表作として有名です。

同性愛者だった?という噂について

チャイコフスキーは同性愛者だったのかもしれないという噂が、現在ではとても有力な説だとされています。はっきりと本人がそのように発言したというわけではないようですが、当時のチャイコフスキーはそのように受け取れる表現を手紙で使ったり、周囲にはそのような噂があったりしました。

この噂に関しては本当のところはわかっていません。そのため、有力とする意見が多いですが、否定する意見もあげられています。

ピョートル・チャイコフスキーにまつわるエピソード

エピソードとして残っているものから、チャイコフスキーの生涯に影響のあった人物と、関連のあるものを2つ紹介します。

演奏拒否、その後の成功

チャイコフスキーの代表作であるピアノ協奏曲第1番ですが、当初は初演をニコライ・ルビンシテインに依頼しようとしていました。しかしニコライがこの作品を批判したため、初演はハンス・フォン・ビューローという、当時の有名なドイツの音楽家だった人物によって行われ、大成功を収めます。最初はニコライに献呈される予定でしたが、ニコライがこの作品を認めなかったため、初演を行ったビューローに献呈されました。

資金援助を受ける

チャイコフスキーが結婚をする前の年、1876年に、その後長く資金援助をしてくれることになる女性との関係が始まりました。ナジェジダ・フォン・メックというその女性は、10年以上もの期間に渡りチャイコフスキーに多額の援助を行っていて、交響曲第4番はこの女性に捧げられたとされています。その長い期間、2人は手紙でのやりとりを頻繁にしていましたが、不思議なことに1度も会おうとはしなかったようです。たまたま会ってしまうことがないようにと、わざわざ手紙で示し合わせることもあったとされています。

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