アレクサンドル・グラズノフってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]SINFONIEN 4 ES-DUR OP.

アレクサンドル・グラズノフという作曲家をご存知ですか?。アレクサンドル・グラズノフ(以下グラズノフ)は、19世紀中盤から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの作曲家です。作曲のほかに指揮者、教育者としても活躍した人物で、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチなど20世紀を代表する作曲家を育てています。

人生の後半になると作曲の機会も減り、多産な作曲家とは言えないかもしれませんが、ヨーロッパの音楽とロシアの民族性を融合させるなど、音楽史において重要な人物です。今回はグラズノフの人生についてご紹介します。

グラズノフの生涯について


旧ロシア帝国に生まれ、パリで亡くなるまでの人生はどのようなものだったのでしょうか。時代ごとにご紹介します。

幼少期

グラズノフは、1865年ロシア帝国のサンクトペテルブルグで生まれました。父は「グラズノフ社」として有名な出版業者を営み、母はペテルブルグ音楽院でピアノ科を卒業した裕福な家庭に育ちました。グラズノフに最初にピアノの手ほどきをしたのは母親でした。

しかしグラズノフがあまりにも天才的才能を持っていたため、わずか9歳にして母親のピアノの技術を超えてしまったそうです。さらには、11歳から作曲の勉強を始めるという早熟の天才でもありました。

グラズノフ家では毎晩のように小さな音楽会が開かれていたようで、多くのアマチュア音楽家が出入りしていました。そのような環境にあったことも、グラズノフの才能が開花した要因だったのかもしれません。息子の才能に驚いた母は、9歳から音楽教師をつけてグラズノフに音楽を学ばさせます。この音楽教師から、およそ5年間にわたりベートーヴェンやモーツァルトなどの古典音楽を学びました。

1879年、14歳になったグラズノフは、その後の人生を大きく左右する人物と出会います。

バラキレフとリムスキー・コルサコフとの出会い

グラズノフは母に連れられて、ある作曲家と出会うこととなりました。その人物とは、当時「ロシアの5人組」の中心的人物として活躍していた、バラキレフでした。

バラキレフはすでに40歳を超えていましたが、10代の少年グラズノフの才能を早くから認め、リムスキー・コルサコフに紹介し、作曲を学ぶように薦めます。これがきっかけとなり、リムスキー・コルサコフから管弦楽法や和声、対位法などの作曲を学ぶことになります。そしてこの師弟関係はやがて友情関係へと代わり、生涯の友人となったのでした。

作曲に対しても天才的な才能を発揮したグラズノフは。わずか17歳で「交響曲第一番」を発表し、初演は大成功を収めました。この初演が終わったあと、作曲者が舞台に上がると聴衆全員が驚いたと言われています。というのも、あまりにも完成度の高い交響曲を作曲したのが、まだ制服を着た青年だったからです。この成功をきっかけに、若いグラズノフの名声は瞬く間に世間に広がりました。

また、グラズノフの才能に注目したのは音楽家だけではありませんでした。材木商を営み富豪として名を馳せていた、ミトロファン・ベリャーエフもその1人です。グラズノフの才能に興味をもったベリャーエフは、1884年19歳になったグラズノフを連れてヨーロッパへと向かいます。

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その目的はグラズノフの見聞を深めることと、ドイツに滞在していたフランツ・リストに会い、グラズノフの才能にお墨付きを得るためでもありました(いわゆるワイマール詣)。グラズノフの才能を認めたリストは、ワイマールにてグラズノフの「交響曲第一番」を自身の指揮により披露しています。

やがてグラズノフの名声は世界的なものへと広がって行きます。1888年(23歳)には指揮者としてもデビューし、翌年のパリ万博では自身が作曲した「交響曲第二番」を演奏しました。1880年代後半から20世紀初頭にかけて、まさにグラズノフの才能は全盛期となったのでした。

>>リムスキー・コルサコフってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

音楽院院長時代

数々の功績が認められ世界的な音楽家となったグラズノフは、1899年、当時リムスキー・コルサコフが院長を勤めていた、サンクトペテルブルグ音楽院の教授に就任します。ここから教育者としての道が始まりました。グラズノフは教育にもとても熱心で、また学生に対して大変親身になって接したそうです。

1905年、リムスキー・コルサコフが音楽院を解任されると、グラズノフが院長に選出され、音楽院のカリキュラムを徹底的に改善しました。それは、学生ができるだけ音楽に打ち込めるように施設を整えたり、生活に困っている学生には暮らしの援助をするなど非常に献身的なものだったそうです。

音楽院や学生に対する想いが伝わる、グラズノフのエピソードが残っています。
ある日、ソビエト政府がグラズノフの生活救済を提案しました。しかしグラズノフはこれに対して「そんなことをするくらいなら音楽院に焚(た)き木を送って、学生がもっと快適に学べるようにして欲しい」と提案したそうです。すると後日、ソビエト政府から音楽院に焚き木が送られました。この頃のグラズノフが教育者として常に使命を果たしていたことがわかるエピソードです。

晩年

1917年に起きたロシア革命後も音楽院院長を続けていたグラズノフでしたが、学校経営の方針やグラズノフ自身の保守的立場などに対する不満が高まります。音楽院において教育者としての仕事を懸命に尽くしてきたグラズノフですが、周囲の自分に対する見方に疲れたのか、1928年ヨーロッパへ渡ります。フランスのパリへと移住したグラズノフは、翌年の1929年、64歳にして10歳年下のオリガ・ガヴリロヴァと結婚し、オリガの娘を養女として向かい入れます。

パリで生活することになったグラズノフは、バレエ音楽「四季」の録音をするなど音楽に携わっていましたが、1936年、70歳でこの世を去りました。死因はわかっていませんが、アルコールが大変好きだったことで知られているので、何らかの原因があるのかもしれません。

まとめ

今回はグラズノフの生涯についてご紹介しました。幼少の頃より神童として成長したグラズノフ。ロシアを代表する作曲家として活躍しましたが、彼の業績はむしろ後進の育成にあったのかもしれません。グラズノフは、「ロシアの5人組」の影響を受け、ロシアの民族精神に重きをおき作品に反映させました。あまり聞く機会は多くはないと思いますが、この記事を参考にぜひグラズノフの作品を聞いてみてください。

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