モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーってどんな人?その生涯や性格は?

出典:[amazon]The Best of Mussorgsky (Remastered)

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは1839年にロシアに生まれた作曲家です。無造作な髪形に無精ひげをたくわえた独特な風貌の肖像画を見たことがある方もいらっしゃると思います。ムソルグスキーはワイルドな肖像画の印象とは裏腹に、音楽に対して非常にひたむきな性格でした。「ロシア5人組」の一人であり、その中で最もロシア民謡の伝統に忠実な姿勢だったそうです。

この記事では、そんなムソルグスキーの生い立ちや性格、作品について触れていきます。

ムソルグスキーの生涯

それでは、ムソルグスキーの生涯を幼少期から節目ごとに紹介していきます。

生い立ちから青年期

1839年3月21日に、プスコフ州というロシア西部の村に生まれました。地主貴族の末っ子として生まれた彼は、母にピアノの手ほどきを受けるようになり、フランツ・リストの作品を弾くなど幼少の頃より音楽の才能を見せていたそうです。

10歳の頃にサンクトペテルブルグへ移住し、アントン・ゲルケにピアノを師事。その一方で陸軍士官学校に進学します。学校では大変礼儀正しくピアノの腕前はピカイチ、マナーや身のこなしもばっちり、成績優秀で絵にかいたような士官ぶりで人気者だったそうです。

将来的に武官を目指していたムソルグスキーでしたが、彼の中で音楽は大切な存在であり続けました。
この頃から独学で作曲を始めるようになりました。また、士官学校の合唱団に加わり、そこの指揮者にロシアの教会音楽について啓発されました。「ロシア5人組」のメンバーであるバラキレフやキュイ、ボロディンと知り合ったのはこの頃です。

1852年には父の援助もありピアノ曲「旗手のプルカ」を初出版。しかし、その翌年に父は逝去してしまいます。ムソルグスキーが14歳のときでした。

その後、ムソルグスキーはバラキレフにドイツ音楽や作曲の指導を受けるようになります。1858年、ムソルグスキーが19歳のときには軍務を退役し、音楽の道に専念することを決意しました。

波乱の壮年期

1861年の農奴解放令により、地方の地主であったムソルグスキー家も大きな影響を受け、没落します。音楽に専念するために軍務を退役していたムソルグスキーでしたが、専業音楽家をあきらめ、生活のために下級官吏として生計を立てるようになりました。しかし、一度エリートコースから外れた彼の給料は微々たるもので、生活は貧しいものでした。

その傍らで、ペテルブルクで近代芸術や近代科学について造詣を深めていきます。影響を受けたムソルグスキーは、徐々にリアリズムの理念を抱くようになり、農民などのいわゆる下級階層の人々の厳しい現実に共感を寄せるようになりました。必然的に彼の音楽スタイルへ反映されることになります。

現実生活に着目し、社会の低層に共感する姿勢を見せていたムソルグスキーでしたが、彼にとっていい影響をもたらすだけではありませんでした。
1865年に母が死去すると、ムソルグスキーは徐々に酒浸りの生活を送ります。皮肉なことに、現実生活を重要視する音楽スタイルは彼自身の神経衰弱に無残にも拍車をかけていったのです。芸術への希求と貧困生活の中で、精神を病むようになり、生活も破滅的なものだったそうです。家賃を滞納して友人の家に転がり込んだり、うつや不眠に悩まされる生活でした。

官吏としての職務も安定していませんでしたが、なんとか芸術生活と両立しようとします。官吏を務めながら作曲する生活は十数年続きました。

狂騒と悲哀の晩年

引き続きリアリズムに立脚した楽曲を発表していくムソルグスキーですが、仲間である「ロシア5人組」のメンバーから作品を批判されます。なぜならば、突飛で異彩を放っていた彼の音楽は上演機会に恵まれず、当時は理解されにくかったようです。
1873年、友人であるヴィクトル・ハルトマンが死去。肉親やルームメートも結婚を機にムソルグスキーから距離を置くようになり、孤立を深めていきます。

官吏の仕事はたびたびの病気や欠席のためにいっそう不安定になりました。職場では彼の音楽に対する情熱が寛大に扱われていたようですが、ついに公務員としての地位をはく奪されてしまいます。ムソルグスキーが41歳のとき、亡くなる1年前のことです。このときも、友人の援助を受けながらなんとか作曲活動を継続していました。

1881年に4度の心臓発作に見舞われ、昏睡状態に。アルコール中毒による精神錯乱も見られました。心身の治療のために入院生活が始まります。ちょうどこの入院中に、画家のレーピンがムソルグスキーのかの有名な肖像画を描きましたが、残念ながら最後の姿を残すものとなりました。孤独の中、1881年3月28日に42歳で息を引き取ります。

レーピンがこの肖像画を売却し、そのお金をムソルグスキーの葬儀費用に充てたといわれています。

ムソルグスキーについてのエピソード

孤独で悲壮な生活を送ったムソルグスキーには、特徴的なエピソードがいくつかあるのでご紹介します。

ムソルグスキーは酒乱?

酒浸りな生活を送っていたことで有名なムソルグスキー。長らくアルコール依存症に苦しんでいたといわれています。

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母の死をきっかけにどんどん酒量が増えていきました。相当なショックを受けたのでしょう。

晩年はアルコール依存症の治療のために入院していましたが、亡くなったきっかけは「ブランデーの大瓶」。飲み干したのか空のブランデーの大瓶の横に倒れた状態で亡くなっていたそうです。

ちなみに飲酒の習慣はなんと士官学校時代からあったそう。ロシアは未成年者も大酒飲みが多いのでしょうか?

友人に恵まれた晩年

家族や友人の死、「ロシア5人組」からの批判、職場追放など孤独感を強めていったムソルグスキーですが、意外にも晩年は友人に恵まれていたといいます。

破滅的な生活や病によって官吏の仕事を失ったムソルグスキーは困窮状態に陥ります。しかし作曲途中の楽曲が大変多く残されている状態でした。それを知った友人たちは、ムソルグスキーの芸術活動のために寄付を募ったのだとか。その他にも伴奏の仕事をくれるなど援助があったそうです。

また、死因となった入院中のブランデーの大瓶。これは一時的に復調したムソルグスキーのお見舞いに訪れた友人たちが、なんと差し入れに持ってきたのではないかと言われています。アルコール依存症の治療のために入院しているのに、酒の差し入れとは攻め入った見舞い品ですが、ムソルグスキーは見事に好意を受け取り、残念な結末となってしまいました。

ムソルグスキーの誕生日は3月21日ですが、亡くなったのは3月28日でした。お誕生日のお祝いだったのかもしれませんね。

ロシア5人組との関係

ムソルグスキーの特徴の1つでもある「ロシア5人組」について説明します。

「ロシア5人組」がいた時代に、ロシアで有名な作曲家が活動していました。かの有名なチャイコフスキーです。

当時、チャイコフスキーは西欧の楽曲理論を取り入れた作品を多く発表し、根強い人気がありました。チャイコフスキー、もとい西欧要素に対するアンチテーゼとして存在したのが「ロシア5人組」です。西欧の模倣ではなく、ロシア独自の国民音楽を創造することが目的のグループでした。

1856年にリーダー格であったバラキレフと音楽評論家のキュイにより結成されました。その後、1857年にムソルグスキーが参加します。4年後の1861年にはリムスキー=コルサコフが、そして5人組最後のメンバーであるボロディンが1862年に参加しました。

目的は同じでしたが、実は5人とも作風はバラバラでした。決して強い結束があるわけでもなかったのですが、1870年まで活動は続き、ロシア国内に限らず音楽会に多大な影響を与えたと言われています。

中でもとりわけ、ムソルグスキーはロシア風に忠実でした。存命中は楽曲が評価される機会に恵まれませんでしたが、後世になり徐々に作品の知名度が高まります。結果として、マイナーな作曲家が多いロシア5人組の中ではメジャーな存在となりました。

ムソルグスキーの作品

最後にムソルグスキーの作品について簡単に紹介します。

楽曲について

ムソルグスキーは音楽を学び始めた頃から晩年まで、生涯にわたって歌曲を書き続けました。そのため作品数として多いのは歌曲ですが、後世になり有名になったのはピアノ曲の「組曲 展覧会の絵」や管弦楽曲の「禿山の聖ヨハネ祭りの夜」(=交響詩「禿山の一夜」)です。

なお、未完成の楽曲も多く残されており、別の作曲家によって補筆された曲もあります。

形式面での美しさや技法的洗練を軽蔑し、全音音階や大胆な和声、ロシア固有の旋法を用いた独自の音楽は、当時は評価されませんでした。楽曲が公演拒否されるなど日の目を見る機会に恵まれなかったのです。それでも彼の斬新な作曲スタイルが後の作曲家たちに与えた影響は大きく、ムソルグスキーの死後、ドビュッシーなどの印象主義の作曲家たちに引き継がれることとなりました。

ムソルグスキーの代表曲

現代でも耳にすることが多い楽曲は、やはり「組曲:展覧会の絵」ではないでしょうか。ムソルグスキーはピアノ曲として完成させましたが、のちにラヴェルが華やかな管弦楽曲に編曲して有名になった曲です。いくつかの小品に分かれていますが、有名なのは「プロムナード」「キエフの大きな門」。バラエティ番組でも使われているので誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

他にも、ディズニーの名作映画で使用されていることから一躍有名になった「交響詩:禿山の一夜」。この楽曲は、当時ムソルグスキーにより「管弦楽曲:禿山の聖ヨハネ祭りの夜」として発表されましたが、のちに「ロシア5人組」の一人であるリムスキー=コスサコフにより改作されたものが一般的に演奏されることが多いです。

どちらも現代ではメジャーな曲ですが、ムソルグスキーが生きていた時代にはこんなに有名になるとはきっと想像がつかなかったことでしょう。別の作曲家に編曲された楽曲で広く有名になりましたが、今はムソルグスキーの原典版も公演されることが多くなりました。ぜひ聞き比べながら違いを楽しんでみてくださいね。

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