ミリイ・バラキレフってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]Mily Balakirev (Selected Piano Works)

ミリイ・バラキレフ(以下バラキレフ)という作曲家をご存知ですか?。バラキレフは19世紀初頭から20世紀にかけて活躍したロシアのピアニスト、作曲家です。それほど多くの作品を残してはいませんが、有名な「ロシアの5人組」のリーダー的存在であり、クラシック音楽史において重要な役割を果たしました。音楽家であるとと同時に、教育者でもあったバラキレフの生涯とはどのようなものだったのでしょうか。今回は、バラキレフの人生をご紹介します。

バラキレフの生涯

ミリイ・バラキレフは、1837年、ロシアを代表する大河ヴォルガ河とオカ川が合流する商業都市ニジニ・ノヴゴロドに生まれました。ニジニ・ノヴゴロドはロシア第5の都市です。バラキレフは少年時代に母からピアノを習い、早くから音楽的才能を示したそうです。

その後、本格的にピアノを学ぶために、フランス系ロシア人で、ロシア民謡やジプシー的音楽を作曲したアレクサンドル・デュビュークに師事します。のちのバラキレフが民謡やオリエンタルに興味を抱くのも、デュビュークの影響かもしれません。

1855年、18歳でサンクトペテルブルグのカザン大学に入学し数学を専攻しました。その後、モーツァルトの論評で有名だった伝記作家のウーリビチョフの紹介で、作曲家のグリンカ(※1)と出会います。グリンカと出会ったことで再び音楽に関心を再び持ったバラキレフは、作曲家の道を歩むことになりました。

バラキレフを中心にツェーザリ・キュイやムソルグスキーなどが集まり、ロシアの民族的音楽を軸にした「ロシア国民楽派」(のちのロシア5人組)を立ち上げ、バラキレフは「ロシア国民楽派」の指導的な役割となり、後進の教育に力を注ぐようになります。

1862年、「ロシア国民楽派」の仲間とともに、それまでロシア内で主流だった「西欧派」に対抗するために無料音楽学校を設立し、毎週日曜日に音楽会を開くようになります。
無料音楽学校はとても人気だったそうで、開校1ヶ月で300人以上の人が集まったと言われています。バラキレフ自身も1868年に校長に就任し、ロシア音楽の発展に貢献しました。

無料音楽学校では、主にグリンカの作品やベルリオーズ、シューマンなどの後期ロマン派が演奏され、また、天才グラズノフの「交響曲第1番」の初演が行われたのも無料音楽学校においてでした。バラキレフの校長退任後はリムスキー=コルサコフが校長に就任しています。

1874年、バラキレフは無料音楽学校を辞任し、以降数年間は音楽界から遠ざかります。音楽活動から遠ざかっていた間、バラキレフはサンクトペテルブルグ・ワルシャワ鉄道で鉄道員として働いたそうです。その後1881年に無料音楽学校への復帰が決まると、未完だった交響曲を完成させるなど制作意欲を取り戻し、1883年には宮廷聖歌隊の隊長という重要な役職を務めました。

多くの後進を育てたバラキレフは1910年、73歳でこの世を去りました。未完成だった「ピアノ協奏曲2番」は親しい友人であったセルゲイ・リャプノフによって完成されました。

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※1、グリンカは「近代ロシア音楽の父」と称される作曲家です。作風はロシア民族風であり、チャイコフスキーなどに影響を与えました。代表作に「ルスランとリュドミラ」があり、今でも大変人気のある作品です。

ロシアの5人組とは?

ロシアの5人組とは、バラキレフが中心となって活動した音楽グループです。バラキレフ以外のメンバーは、

・ツェーザリ・キュイ
ムソルグスキー
リムスキー=コルサコフ
・ボロディン
の4名です。

当時のロシア音楽会で主流だった「西欧派」のアントン・ルビンシテインに対し、「5人組」の作品は、ロシア社会の現実や民謡、民族の志向性に焦点をあてたのが特徴です。また、「標題音楽」(※2)を重視した点も「5人組」ならではかもしれません。リムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」など多くの名作を生み出した人々です。

※2、標題音楽とは情景やイメージ、気分などを描写した作品のことです。これに対し、純粋に音楽のみで表現された音楽を「絶対音楽」と言います。

エピソード

教育者としてのバラキレフがわかるエピソードがあります。

それは、のちに「ロシアの5人組」の1人となったリムスキー・コルサコフとの出会いです。当時まだ17歳だったリムスキー・コルサコフに出会ったとき、その才能を認め作曲法や管弦楽法を教えたのがバラキレフでした。そして、海軍遠征をしていた影響でなかなか作曲が進まなかったリムスキー・コルサコフを励まし、「交響曲第1番」を発表する手助けをするなど教育者として大きな役割を果たしています。

また、40代の頃に出会った天才少年グラズノフの才能をいち早く見抜き、リムスキー・コルサコフに紹介したのもグラズノフです。その後、リムスキー・コルサコフとグラズノフの関係は師弟という関係を超え、生涯の友人にまで発展しました。

このことから、バラキレフはロシア音楽史上で重要な人物だったことがわかります。

死因は?

いろいろと調べましたが、死因についてはわかりませんでした。バラキレフ死後、他の5人組と同じく、サンクトペテルブルグのアレクサンドルネフスキー大聖堂に埋葬されました。

まとめ

今回はバラキレフの生涯についてご紹介しました。バラキレフは作品こそ少ないものの、19世紀から20世紀に活躍した多くの作曲家に影響を与えました。5人組には入らなかったものの、チャイコフスキーも作品についてバラキレフからアドバイスを受けていたそうです。あまり作品を聞く機会はないと思いますが、これをキッカケにぜひバラキレフの作品を聞いてみてはいかがでしょうか。

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