リムスキー・コルサコフってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]リムスキー・コルサコフ:作品集

リムスキー・コルサコフという作曲家をご存知ですか?リムスキー・コルサコフは19世紀半ばから20世紀に活躍した、ロシアの作曲家です。「熊蜂の飛行」という曲が有名で、彼の名前は知らなくとも一度は聞いたことのある作品だと思います。またリムスキー・コルサコフは「近代管弦楽の父」と言われ、大変な研究熱心な人物であり、20世紀に活躍した多くの作曲家を育てました。そこで今回は、リムスキー・コルサコフの生涯や、人物像をご紹介したいと思います。

リムスキー・コルサコフの生涯

「近代管弦楽の父」と称され、後世に大きな影響を及ぼしたリムスキー・コルサコフとはどのような人物だったのでしょうか。またリムスキー・コルサコフは、「ロシアの5人組」の1人としても知られ、バラキレフやムソルグスキーなどと共にロシアの民族的音楽を追求し、組曲「シェエラザード」といった独特の世界観を生み出したことでも知られています。

幼少期から海軍兵学校時代

リムスキー・コルサコフは1844年、ロシア北西部チフヴィンで生まれました。チフヴィンは、古くから水路や陸路などの交易で栄えた街でした。そのような環境で育ち、また22歳年上の兄が海軍軍人であった影響で、12歳でサンクトペテルブルグ海軍兵学校へ入隊します。したがって音楽家のエピソードでよく聞かれる、天才的なエピソードは残っていません。
しかし、音楽への興味は子供の頃からあったようで、15歳頃からピアノを習うようになりました。

転機となったのは、作曲家バラキレフとの出会いでした。この出会いにより、本格的に作曲を学び始め、29歳で海軍を辞するまで海軍軍人と音楽家という二つの道を同時に歩むこととなりました。

「交響曲第一番」(1865年)は、海軍軍人として3年半におよぶ海外遠征中に作曲が進められた作品でした。初演は好評だったようで、世間から「前代未聞の交響曲」と称されたほどでした。リムスキー・コルサコフは、その後もバラキレフの指導のもとで作曲を勉強し、なんと27歳という若さでサンクトペテルブルグ音楽院の教授職を任命されることとなりました。

音楽院の教員として

1871年、27歳で音楽院の教授となったリムスキー・コルサコフは、音楽院で教鞭をとりながらも、自身の作曲に関する勉強不足を補うために和声楽や管弦楽法などの勉強に励みました。1905年に教授職を解雇されるまでは作曲に費やす時間が多く、また意欲的でもあったようで、オペラ「五月の月」(1879年)や「雪娘」(1881年)などを作曲しています。

オペラ「雪娘」はそれなりに評価が高かったものの、その後は作曲から少し遠ざかり、友人であったムソルグスキーの作品の出版や、未完成だった作品の編曲や補筆などを行いました。

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1889年に開催されたパリ万博では、リムスキー・コルサコフ自身が現地に赴き、ロシア音楽を紹介するコンサートで指揮をつとめたり、当時フランスではあまり有名ではなかった、ムソルグスキーやボロディンを紹介するなどロシア音楽の普及にも努めています。

パリ万博での演奏会にはドビュッシーやラヴェルも会場におり、リムスキー・コルサコフの演奏を聞いていたと言われています。とりわけラヴェルはリムスキー・コルサコフのオリエンタリズムの影響を受けたようで、序曲「シェラザード」はその影響下で作曲されました(のちに決別することになりますが)。

晩年

1889年にパリ万博で演奏会を行ったリムスキー・コルサコフは、同年に本国ロシアにてワーグナーのオペラを聴き、その作品に強く感銘を受け、以降亡くなるまでオペラの作曲に力を注ぐようになります。ちなみに、このときに聞いたワーグナーの作品は「ニーベルングの指輪」だったそうです。

1905年、政府を批判したことで音楽院を解任されましたが、グラズノフなどの働きかけにより復職し、オペラ「金鶏」を作曲します。この作品は、当時のロシア政府の体制を暗に非難する作品だったため、リムスキー・コルサコフが存命中には公開されず、死後1909年に初演されました。

死因は?

リムスキー・コルサコフは、亡くなる数年前から狭心症を患っており、1908年6月にロシア、レニングラード南西部のリューベンスクで亡くなりました。享年64歳。
リムスキー・コルサコフから影響を受けた作曲家はとても多く、19世紀から20世紀にかけてのクラシック音楽界において、まさに礎(いしずえ)を築いた作曲家と言えるでしょう。

リムスキー・コルサコフは妻との間に7人の子を授かり、娘のナジェージダの結婚の際には、弟子のストラヴィンスキーから管弦楽曲「花火」が献呈されています。

エピソード

もともと軍人貴族の出身であったリムスキー・コルサコフ。ロシアの近代化の遅れに批判的だったようで、音楽院の学生たちによる革命に対する学生運動を支持していました。そのことが当局の目に留まり、教授職解任されることとなってしまいます。

しかし、「リムスキー・コルサコフがいなくなってしまうのなら私も」と他の教員も含めて総勢300人ほどが音楽院を去ったそうです。後にグラズノフによって復職を果たしましたが、リムスキー・コルサコフが学生からとても慕われており、良い教育者であったことがうかがえるエピソードです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回はリムスキー・コルサコフの生涯や人物像をご紹介しました。彼の写真を見ると、まさに学者のような風貌で、また教育者としての雰囲気がにじみ出ています。一方で作品を聞いてみると、伝統的形式を継承しながらも、スタイリッシュでロシア民族的な作品がいくつかみられます。ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、ラヴェルなどにも影響を与えたリムスキー・コルサコフの作品は他にもまだまだたくさんありますので、ぜひご自身のお気に入りの作品を見つけてみてください。

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