フランシス・プーランクってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]プーランク : 歌曲全集 (Poulenc : Integrales des melodies pour voix et piano)

フランシス・プーランクという人物をご存知ですか?フランシス・プーランクは19世紀末に生まれ、20世紀半ばまで活躍したフランスの作曲家です。同時代に生きた多くの作曲家が、現代音楽的試みを模索するなか、プーランクはフランスの「エスプリ」の効いた、オシャレで知的、ユーモア溢れる作品を多数作曲しました。一般の方には馴染みの薄い作曲家かと思いますが、プーランクは「20世紀前半における最も偉大なフランスの作曲家の一人」と称されています。そんなプーランクはどのような人生を歩んだのでしょうか。今回はプーランクの生涯について解説します。

フランシス・プーランクの生涯について

フランシス・プーランクの生涯について紹介します。激動の時代に歩調を合わせるかのように、浮き沈みの激しい人生を送ったようです。

裕福な家庭に生まれる

フランシス・プーランクは1899年、パリ8区に生まれました。父のエミール・プーランクは製薬会社で財を成した実業家で、母はピアノが得意な音楽的素質の高い人物だったそうです。また父エミールは敬虔なカトリック教徒だったこともあり、このことが後のプーランクの信仰心に大きな影響を与えます。

5歳でピアノを習い始めたプーランクは、8歳の頃に聴いた色鮮やかなドビュッシーの作品に夢中になり、その後シューベルトやストラヴィンスキーなどに強い影響を受けています。ピアノの才能に恵まれ、自然に音楽の道を志したプーランクですが、父エミールは、まずは普通学校で一般教育を受けた後にパリ音楽院の受験を希望したため、パリ9区のリセ・コンドルセに進学し、独学で音楽を学び始めます。1915年に母が他界し、1917年には父もこの世を去るなど、相次ぐ不幸がプーランクを襲いましたが、両親の他界をきっかけに、プーランクは音楽家になる決意を固めます。

若くして名声をつかむ

父が他界した年の12月、若きプーランクは「黒人の狂詩曲」を発表し作曲家デビューしています。当時は黒人芸術が流行しており、その潮流に乗った「黒人狂詩曲」は、初演後もパリでたびたび上演されるなど成功を収め、プーランクの名は徐々に知られるようになります。またモーリス・ラヴェルと出会ったのもこの頃で、2人は音楽的解釈に大きな隔たりがあったものの、プーランクはラヴェルの謙虚な人柄に感銘を受け、生涯を通じてラヴェルを模範として慕いました。

1918年から1921年、第1次世界大戦にフランス陸軍兵として従軍したプーランクは、この間、ピアノ曲「3つの無窮動」やアポリネールの詩に音楽をつけた歌曲集「動物特集、またはオルフェのお供たち」を発表するなど精力的に作品を発表し、フランスでの名声を高めていきます。そしてジョルジュ・オーリックやダリウス・ミヨーらと共に、いわゆる「フランス6人組」を結成し、若手作曲家として注目を集めました。

フランスを代表する作曲家へ

第1次世界大戦終了後、ミヨーとともにヨーロッパ各国を旅行しプーランクは見聞を広めます。とくにウィーンではシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンといった新ウィーン学派のメンバーと面会し、当時最先端の音楽理論である「十二音技法」を目の当たりにしています。プーランク本人は十二音技法に傾倒しなかったものの、新ウィーン学派の新しい試みに惜しみない賞賛を送ったそうです。1920年代以降のプーランクは、バレエ・リュスの依頼による「牝鹿」やクラヴサンのための合奏曲「田園のコンセール」を発表するなど、国際的な成功を収めるようになります。

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1930年代になると「2台のピアノのための協奏曲」、「オルガン協奏曲」、「オーバード」などの作品を発表する一方で、「黒衣の聖母のリタニ」や「ミサ曲ト長調」を作曲するなど宗教的作品も積極的に発表し始めます。途中、第二次世界大戦勃発のため短期的に徴兵されたプーランクですが、戦時中も「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」や「人間の顔」などの作品が進められるなど、旺盛な作曲活動が続きました。

晩年

終戦後のプーランクはその活動をアメリカにまで広め、自作の歌曲や他のフランス作曲家の歌曲を広げる役割を果たしました。また、晩年は「ティレジアスの乳房」、「カルメル会修道女の対話」などのオペラを作曲する他、後期の傑作である「フルートソナタ」を書き上げるなど次々と傑作を生み出します。最晩年の1年間の間にも「テネブレの7つの応唱」、「クラリネットソナタ」、「オーボエソナタ」といった名作を発表したプーランクでしたが、1963年1月30日、約束していた食事のキャンセルの電話をした後、心臓発作のためこの世を去りました。享年64歳。葬儀は自宅近くの教会で執り行われ、式ではバッハのオルガン曲が鳴り響きました。

性格を物語るエピソードは?

プーランクのエピソードを紹介します。色々と調べてみてわかったことは、プーランクは今で言うところの、「愛されキャラ」だったようです。

多くの芸術家から影響を受ける

プーランクが過ごした20世紀初頭のパリは、あらゆる芸術の中心地でした。パリ生まれパリ育ちの生粋のパリジャンだったプーランクは、10代にして詩人のアンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、ポール・エリュアールなどといった新進気鋭の詩人たちと接する機会を得ます。彼らと接した事で、プーランクは詩的抒情性を開花させ、その作風に新たな可能性を見出しました。

演奏会に飛び入りで本人が参加

デビュー作「黒人の狂詩曲」発表の際、バリトン担当の声楽家が怖気付き、ステージから逃げ出すというハプニングが起きました。これを見ていたプーランクはすぐさま舞台に飛び入り参加し、無事に初演を成功させます。初演当日に逃げ出してしまうバリトン歌手にも驚きですが、とっさに舞台に上がり演奏を成功させるプーランクの度胸にも感心してしまいます。初演は成功を収め、ラヴェルやストラヴィンスキーからも賞賛されました。

専門的に音楽を学んでいないことに悩む

父親の言いつけにより音楽学校に進学できなかったプーランクは、正式な音楽教育を受けていないことに悩んだ時期があったようです。こうした自分の経歴についてサティやラヴェルに相談していることから考えると、プーランクはかなりコンプレックスを抱えていたのではないかと推察できます。最終的にミヨーの紹介により、シャルル・ケクランの元で作曲を学ぶことになりましたが、大胆な作風とは裏腹に、プーランクの繊細な一面が垣間見えるエピソードです。

まとめ

今回はプーランクの生涯について紹介しました。プーランクの色彩豊かな作品を聴くと、「こんな作品聴いたことがない」と驚かれる方が多いのではないかと思います。プーランクはピアノ曲やオペラ、室内楽など多種多様な作品を残していますので、この記事を読んで興味が湧いた方は、ぜひプーランクの作品に触れてみてはいかがでしょうか。遊び心満載のプーランクの音楽をきっと好きになると思いますよ。

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