ジャン=バティスト・リュリってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ジャン=バティスト・リュリという音楽家をご存知でしょうか?リュリは粉挽き屋を営む両親の元に生まれながら、生来の才能を活かし、太陽王ルイ14世の宮廷音楽家にまで上り詰めた人物です。また、フランス・バロック音楽に革命をもたらし、「フランスオペラの父」とも称されています。そんな絵に描いたようなサクセスストーリーを歩んだリュリとは、どのような人物だったのでしょうか。今回はエピソードを交えながらリュリの生涯について解説します。

ジャン=バティスト・リュリの生涯について

ジャン=バティスト・リュリの生涯について解説します。意外にも、リュリの人生にチャンスをもたらしたのは音楽ではなかったようです。

粉挽屋から王宮へ、太陽王ルイ14世と出会う

ジャン=バティスト・リュリ(以下リュリ)は、1632年、イタリアのフィレンツェにて粉挽屋を営む家庭に生まれました。詳しい資料が残っていないため、どのような少年時代を過ごしたかは不明ですが、カトリックの修道士に読み書きやギターの手ほどきを受けたという記録が残っています。また、ギターの他にもヴァイオリンを独学で習得していたことから、少年時代から楽才を発揮したことは間違いないでしょう。

その後1646年、シャルル1世の公子ロジェ・ド・ロレーヌに見出され、リュリは父の了承を経た上でフランスへ渡ります。渡仏したリュリは、モンパンシエ公爵夫人の世話係として働きながら、その間に正式に音楽教育や音楽理論を学び始めます。そして1652年、当時15歳だったルイ14世と「夜の王室のバレエ」で共演したことをきっかけに、リュリは生涯にわたりルイ14世の恩寵を受けることになりました。

やがて本格的にルイ14世体制となった1661年、リュリは宮廷音楽監督に任命され、バレ(バレエ)やオペラの分野で次々と作品を発表し始めます。また、同年フランスへ帰化し、翌年1662年には同僚の娘マドレーヌと結婚し6児(一説には10児)の子宝にも恵まれました。

コメディ・バレで大成功

宮廷お抱え作曲家となったリュリは、イタリア・オペラの要素を取り入れつつ、新たなフランス・オペラを生み出します。その代表作が、劇作家で詩人のモリエールとタッグを組んで制作した『無理強いの結婚』や『町人貴族』です。これらはフランス・オペラに「コメディ・バレ」(舞台喜劇)という新ジャンルをもたらし、大成功を収めました。

しかしモリエールとリュリの黄金タッグは長くは続きませんでした。その原因は、1670年頃からのリュリへの興行収入不払い問題が挙げられます。モリエールと袂を分けたリュリは、その後、周囲の批判を浴びながらも劇場を設立し、音楽家兼プロデューサーとして活動を始めます。

そして『カドミュスとエルミオール』が大ヒットしたことで、リュリの名声は揺るぎないものとなります。この間もルイ14世からの恩寵は衰えることはなく、1677年の長男の洗礼式には、国王自らが代父となり、王の名を長男に与える程だったと言います。

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晩年

ルイ14世の恩寵を受け、音楽家、劇場主として爵位まで受けたリュリでしたが、1685年にあろうことか王の小姓と男色事件を起こしてしまいます。この事件が国王の耳に入ったことで国王の心は次第にリュリから離れ、永遠に続くかと思われた2人の関係は終わりを告げることになりました。

そして事件から2年後の1687年、演奏中に負った傷が原因となりリュリは54歳でこの世を去りました。最後のオペラ『アシールとポリュクセネ』は未完となり、「いざ死すべし、なんじ罪人よ」の文字が書き残されていたと言われています。

リュリの死因やエピソードは?

みずからの卓越した才能と才覚を用いて「叩き上げ」の人生を送ったリュリ。しかしワンマンで強引な性格が災いし、周囲には敵も多かったそうです。

暴漢に襲われたことも

フランス・オペラに新風を巻き起こし、時代の寵児となったリュリですが、傲慢でワンマンな性格から周囲に敵も少なくなかったそうです。それを裏付けるものとして、かつてタッグを組んでいたモリエールが死去した際には「リュリに殺された」というデマが流れる程でした。

またリュリは、パレ・ロワイヤルの劇団員に対して他の劇団への出演を禁止したり、作品の上演権を独占するなど、悪くいえば「やりたい放題」な経営だったと言われています。そんな態度が祟り、暴漢に襲われる事件もあったと言います。

数奇な死因

病気や事故など、人の死因はさまざまです。しかし「指揮棒が原因」でこの世を去ったのは、人類史上でもリュリ一人だけでしょう。事件(事故)は1687年、ルイ14世の病気平癒を祝うために作曲した『テ・デウム』演奏中に起こりました。

17世紀の指揮棒は、現在使われている指揮棒とは異なり棒のような大きな杖でした。大きな杖で床をドンドンと打ち、拍子を取るのが習わしだったのです。演奏会にルイ14世の姿はなかったものの、国王の回復を願い一心に演奏をリードするリュリ。そんな健気なリュリでしたが、誤って指揮棒を自分の足に打ち付けてしまいます。傷はかなり大きかったようで、傷口はやがて壊疽(えそ)し、これが原因で敗血症にかかり54歳という若さでこの世を去りました。

治療にあたった医師が「生き残るためには足を切るしかない」と提案しましたが、それに対しリュリは「王と踊った足は切ることはできない」と述べたと言われています。

まとめ

今回はジャン=バティスト・リュリの生涯について解説しました。今からおよそ400年前の人物であるため、詳しい人物像はわかっていませんが、彼が生み出した作品はのちのフランス・バロックに多大な影響を及ぼしたことは間違いありません。また、2000年代に入ってからもリュリのオペラが上演されていることから、その作品には普遍性が備わっていることも特筆すべき点だと思います。この記事を機会に、フランス・バロックの魅力に触れてみてはいかがでしょうか。

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