フェリックス・ワインガルトナーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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フェリックス・ワインガルトナーは1863年、オーストリア帝国領ダルマチア(現クロアチア)に生まれた指揮者・作曲家です。アルトゥール・ニキシュと並ぶ指揮者の黎明期を代表する人物であり、形式美を重んじる彼の指揮スタイルは、当時のヨーロッパ各国で絶大な指示を集めました。また、戦前に来日した唯一の指揮者としても知られ、今日でも高い人気を保持しています。では、そんなフェリックス・ワインガルトナーはどのような人生を送ったのでしょうか。今回は彼の生涯について解説します。

フェリックス・ワインガルトナーの生涯について

アルトゥール・ニキシュの次に登場するフェリックス・ワインガルトナーはどのような生涯を送ったのでしょうか。同時代にはR・シュトラウスや、アルトゥール・トスカニーニ、メンゲルベルクなどがいます。

フランツ・リスト最後の弟子として

フェリックス・ワインガルトナーは1863年6月2日、オーストリア帝国領ダルマチア(現クロアチア)に生まれました。早くに父を亡くした一家は、オーストリア第二の都市グラーツへ移住し、ワインガルトナーはグラーツにて音楽を学びます。

幼い頃から楽才を示したワインガルトナーは、ピアニストのブゾーニの師であるウィルヘルム・マイヤーの元でピアノと作曲を師事し、音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックの推薦によりライプツィヒ大学に進学します。入学当初は音楽専攻ではなく、哲学を専攻したそうです。

その後、音楽の道を志したワインガルトナーはワイマール音楽院で学び、音楽院ではフランツ・リストの最後の弟子として認められます。リストの推薦により自らが作曲した作品を披露する機会に恵まれますが、ちょうどその頃、職業指揮者が確立し始めた時代だったこともあり、ワインガルトナーは指揮者へ転向します。

ドイツ各地で指揮活動を開始

指揮者ワインガルトナーの評判は上々だったようで、ケーニヒスベルク(1884)での指揮者を皮切りに、ダンツィヒ(1885-1887年)、ハンブルク(1889年)とドイツ各地の歌劇場で指揮を任されるようになります。

1891年から1898年の7年にわたりベルリン宮廷歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)の首席指揮者に就任すると、国内でのワインガルトナーの名声は不動のものとなり、ドイツを代表する指揮者としてヨーロッパにその名が知れ渡ることとなりました。

20世紀に入ってもそのワインガルトナーの人気は止まることを知らず、1902年のマインツ音楽祭ではベートーヴェンの交響曲全9曲を披露するなど、活躍の場はますます広がりを見せます。

グスタフ・マーラーの後任となる

1908年から1911年にかけて、後期ロマン派の大作曲家・指揮者であるグスタフ・マーラの後任としてウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督という大役を担うこととなりました。
とくにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは相性が良かったようで、第1次世界大戦中にはスイスへ演奏旅行にでかけ、戦後はチェコスロバキア、そして1922年には南米でのコンサートも成功させています。
その後1927年にウィーンを離れたワインガルトナーは、スイスのバーゼルに活動拠点を移し、音楽学校の校長とバーゼル交響楽団の音楽監督となり、生涯をスイスの地で過ごしました。一説によると、ウィーンを離れたのはブルーノ・ワルターやエーリッヒ・クライバーといった新進気鋭の指揮者への嫉妬であったとも考えられています。

スイスでの晩年

第2次世界大戦直前にロンドンへ向かい、ヨーロッパでの指揮活動のほか、アメリカ・ボストンなどでも指揮台にたち、後進の育成に務めています。長らく演奏旅行で世界中を駆け巡ったワインガルトナーですが、1938年にナチスがオーストリアを併合したことをきっかけに、再びスイスへ定住し1942年5月7日に、ヴィンタートゥールの病院で亡くなりました。享年78歳。死因については詳しい理由はわかりませんでした。
ワインガルトナーの遺骨は、ヴィンタートゥールのローゼンベルク墓地に埋葬されています。

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フェリックス・ワインガルトナーにまつわるエピソード

ワインガルトナーのエピソードについて紹介します。
世界的指揮者だったワインガルトナーは、日本との関係も深かったようです。

日本で「ワインガルトナー賞」が設置される

1937年、4人目の夫人で指揮の弟子でもあったカルメン・シュトゥーダーと来日したワインガルトナー。演奏は日比谷公会堂で行われ、夫婦で新交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮しました。今からおよそ100年前、妻カルメンは世界で唯一の女性指揮者として知られており、演奏会ではベートヴェンの『レオノーレ序曲』を演奏し大きな話題となりました。

また、ワインガルトナー来日を記念して「ワインガルトナー賞」の設立が決定され、1939年1月、ワインガルトナー自らが審査員となり、多くの若手音楽家たちの作品が見出されています。

第2次世界大戦の勃発により1回限りで終了していまいましたが、戦後日本の音楽界に大きな功績となりました。

ベートーヴェンの交響曲すべてを録音した

ワインガルトナーといえばベートーヴェンの交響曲と言われるほど、卓越した名演を残した彼は、世界で初めてベートーヴェンの交響曲すべてを商業録音した指揮者として知られています。とりわけ『交響曲8番』は名盤であり、現在も多くの聴衆によって愛されています。

また、指揮者レオポルド・ストコフスキーにつぎ、ブラームスの交響曲全4曲を録音したのもワインガルトナーでした。
これは、ワインガルトナーの演奏を聴いて高い評価を与えたブラームスに対する、尊敬の気持ちからだったのかもしれません。

5度の結婚

1942年、78歳でこの世を去ったワインガルトナー。彼はその生涯で5度結婚(資料によっては4度)しています。

1891年マリー・ジュイレラから始まり、フェオドラ・フォン・ドライフス男爵夫人(1903)、ソプラノ歌手ルシール・マルセル(1912、1921年没)、女優ロクソ・ベティ・カリシュ(1922)、最後が指揮者カルメン・スタダー(1931)です。
歴史的大指揮者は恋多き人物でもあったようで、もしかしたら恋愛こそがワインガルトナーの指揮の原動力だったのかもしれません。

作曲家としてのワインガルトナー

指揮者として世界的名声を獲得したワインガルトナー。そんな彼は、指揮者であると同時に、作曲家としてのキャリアも重要視していました。
ワインガルトナーは、生涯で7曲の交響曲、管弦楽曲、室内楽やオペラまで、幅広いジャンルにおいて作品を残しています。

その作風は、彼が生涯尊敬したブラームスの影響が強く、後期ロマン主義と初期モダニズムを融合させた点が特徴です。これらの作品は、現在では演奏されることがありませんが、ワインガルトナーは指揮活動と同じくらい作曲家としての自負が強かったようです。

フェリックス・ワインガルトナーの指揮風景

後年、パリとロンドンで活動したワインガルトナー。過剰なロマン性を排除し、形式美の輪郭を浮かび上がらせるその指揮ぶりは、後世の指揮者に多大な影響を与えました。
なかでもベートーヴェンの『交響曲第8番』を得意とし、ワインガルトナーの代名詞とも言える名演を残しています。一切の無駄を排した、古典派の形式美をぜひ聴いてみてください。

まとめ

フェリックス・ワインガルトナーの人生やエピソードについて解説しました。世界的指揮者が日本と関わりがあったことは意外に知られていないかもしれません。彼について知らなかった方も、この記事を機会に名前を覚えていただき、他の演奏も聴いてみてはいかがでしょうか。録音は古いですが、どの演奏も明快、わかりやすいものが多いと思います。

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