オットリーノ・レスピーギってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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オットリーノ・レスピーギ(以下レスピーギ)は19世紀後半から20世紀にかけて活躍したイタリアの作曲家です。あまり聞き慣れない方も多いと思いますが、「ローマの噴水」をはじめとした、いわゆる「ローマ三部作」がアメリカで成功を収めたことをきっかけに、20世紀初頭を代表する作曲家として広く知られるようになりました。また、音楽大学の教授として長く教鞭を取り、中世時代の音楽を研究した音楽学者としても大きな功績を残しました。
そこで今回は、さまざまな分野で活躍したレスピーギの生涯について紹介します。

レスピーギの生涯について

レスピーギは56歳という若さでこの世を去りますが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか。作曲家、音楽学者、指揮者として活躍したレスピーギの生涯について紹介します。

イタリアのボローニャに生まれる

オットリーノ・レスピーギは、1879年、イタリアのボローニャに生まれました。ボローニャと言えばパスタの「ボロネーゼ」で有名な地域ですので、ご存じの方も多いと思います。父が音楽教師だったため、8歳の時に父からピアノやヴァイオリンの手ほどきを受けましたが、これは音楽家としては比較的遅いスタートと言えるでしょう。しかしのちにヴィオラやヴァイオリン奏者として活躍したので、優れた音楽的才能を持っていたことは確かだと思います。

ボローニャ高等音楽学校に進学し本格的にヴィオラやヴァイオリン、作曲を学んだレスピーギは、同高を卒業後、仕事を求めてロシアに向かいます。そしてロシア帝国劇場管弦楽団に入団し、首席ヴィオラ奏者として活動を開始します。1900年から1903年にかけて2シーズン同管弦楽団に在籍し研鑽を積み、イタリア・オペラの上演などにも携わりました。

またロシア在住中には、リムスキー=コルサコフに知己を得て、5ヶ月間にわたって管弦楽法を学びました。そしてリムスキー=コルサコフから学んだ管弦楽法は、後のレスピーギの作品で存分に活かされることになります。

国立音楽大学の教授に就任

ロシアでの演奏活動を終えたレスピーギは、ボローニャへ戻り作曲科の学位を取得します。その後1908年からムジェリーニ五重奏団の第一ヴァイオリン奏者を務め、演奏家としての活動を活発化させます。また、ベルリンに赴いた際には他の演奏家や声楽家のピアノ伴奏などを務めることで音楽的見聞を広め、重厚なドイツ音楽に魅了されました。

ドイツから帰国したレスピーギは、音楽活動の軸を作曲家へと移し、作曲家としての道を模索し始めます。その後、サンタ・チェチーリア国立アカデミアの作曲科教授に任命されたレスピーギは、1913年からローマに滞在し、「ローマ三部作」などの優れた作品を作曲しました。

教授就任から3年後の1916年、レスピーギは「ローマ三部作」の第一作目にあたる「ローマの噴水(泉とも)」を発表しましたが、この作品はそれほど成功しなかったようです。しかし、1918年に大指揮者トスカニーニが再演したことで大きな話題となったことで、レスピーギの作曲家人生が大きく花開くことになりました。

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1923年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長に就任し、多忙な生活を送りながらも「ローマの松」(1924年)や「ローマの祭り」(1928年)などの作品を発表しました。1920年代のレスピーギはまさに人気絶頂を迎え、トスカニーニの助けもありアメリカでの人気が高まります。1927年にはメトロポリタンでのオペラの準備や、ボストン交響楽団設立50周年の記念作品を委嘱されるなど、アカデミア院長兼人気作曲家として、活動の幅を大きく広げました。

最終的に、レスピーギは1935年までの12年間にわたりアカデミアの院長を務め、1932年にはイタリア王国学士院会員に選出されるに至りました。

晩年について

アカデミアで院長を務めながらも、国内外で自作の作品を発表するなどで多忙な日々を送ったレスピーギですが、1935年にアカデミア退いた後は、比較的自由な時間を過ごしたそうです。しかし自由になったのも束の間、退任翌年の1956年1月に体調を崩し、この年の4月に心臓病のためこの世を去りました。享年56歳という若さでした。もしかしたら、日頃の多忙が祟ったのかもしれません。

当初はローマに埋葬されましたが、1937年に故郷のボローニャに移されました。

レスピーギにまつわるエピソード

レスピーギのエピソードを紹介します。他の作曲家のように派手なエピソードはなく、とても真面目な人物だったようです。

トスカニーニには頭が上がらなかった?

ヴィオラやヴァイオリン奏者として音楽家のキャリアをスタートしたレスピーギ。若い頃は、大指揮者トスカニーニが指揮するオーケストラのヴィオラ奏者を務めていたそうです。レスピーギが作曲家に転身した後もトスカニーニとの親交は続き、レスピーギが成功したのはトスカニーニのおかげと言っても過言ではありません。

そんなトスカニーニは、「ローマの松」のアメリカ初演について、他の指揮者が楽譜を使用するのを勝手に禁止したと言われています。これは著作権で生活する作曲者にとっては災難ですが、レスピーギはトスカニーニの行動について強く言えませんでした。結果的に「ローマの松」初演は大成功を収め事なきを得ますが、どうやらレスピーギはトスカニーニに頭が上がらなかったようです。

趣味は古い楽譜を研究することだった

サンタ・チェチーリア国立アカデミアの教授に就任したレスピーギは、作曲科で教鞭をとる一方で、16世紀から18世紀にかけての古い楽譜の研究に没頭します。これはのちに「リュートのための古風な舞曲とアリア」に完成をみますが、大学の図書館で楽譜を眺めるのがレスピーギの楽しみの一つだったそうです。1人で図書館に籠ることが、多忙だったレスピーギの数少ない気分転換だったのかもしれませんね。

まとめ

今回はレスピーギの生涯について紹介しました。大学教授に就任したことからもわかる通り、レスピーギは学者肌の音楽家でした。大学の図書館で古い楽譜を見ることが楽しみの一つだったというのは、レスピーギらしいエピソードだと思います。レスピーギは多忙だったこともあり、作品数は多くないものの、そのオーケストレーションは色彩豊かで、華やかであるのが特徴です。この記事を機会に、まずは「ローマ三部作」から聴いてみてはいかがでしょうか。

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