バルトーク・ベーラってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]ベーラ・バルトーク:作品によるヴィオラ編曲集

バルトーク・ベーラ(以下バルトーク)という作曲家をご存知ですか?。もしご存知でしたら、かなりのクラシックファンと言えるかもしれません。バルトークは19世紀後半から20世紀半ばまで活躍したハンガリーを代表する作曲家です。バルトークは、自身の母国であるハンガリーの民族音楽や民謡を研究し、民族主義的音楽を確立させました。そんな作品を生み出したバルトークの生涯とはどのようなものだったのでしょうか。今回はバルトークの生涯をご紹介します。

幼少期から音楽院時代


バルトークは、1881年オーストリア・ハンガリー帝国のナジセントミクローシュという町に生まれました。父は農業学校の校長を務め、母はピアノ教師でした。バルトークの父は音楽愛好家で、みずからもチェロやピアノを演奏したそうです。そんな父でしたが、バルトークが7歳のときにこの世を去ってしまったため、一家の家計はピアノ教師だった母が支えることになりました。

音楽好きの両親のもとで育ったバルトークは、幼少の頃から才能を発揮し、4歳の頃にはピアノのレパートリーが40曲もあったそうです。5歳から本格的にピアノを習い始め、10歳でピアニストとしてデビューしました。このときのコンサートでは、アンコールが止まらなかったと言われています。

1898年にウィーン音楽院に入学。しかし指揮者でピアニストであった友人のエルンスト・ドホナーニの勧めで、翌年1899年に母国ハンガリーの王立音楽院(元リスト音楽院)に入学しました。この音楽院でピアノと作曲を学び、1902年に発表した交響詩「コシュート」が注目を集めます。また、この時期のバルトークは、ブラームスやR・シュトラウスに影響を受けており、とくにR・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を聞いて衝撃を受けたと伝えられています。

1903年に同音楽院を卒業したバルトークは、この時期から民族音楽や民謡に関心を持つようになり、生涯のライフワークとなりました。
1905年には、パリで開催されたルービンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門に参加し、作曲部門で奨励賞2位、ピアノ部門でも2位を獲得しました。ちなみに、このコンクールのピアノ部門で1位を獲得したのは、20世紀最高のピアニストの一人と評される、ウィルヘルム・バックハウスでした。

民族音楽の研究の始まり

1907年、26歳の若さでハンガリー王立音楽院のピアノ科教授に着任し、教育にも携わることになりました。大学で教鞭をとるかたわら、作曲活動も続けたバルトークは、1911年に唯一のオペラ「青ひげ公の城」を作曲し、しだいに作曲家としての認知も浸透していきます。

民族音楽研究に取り組んだバルトークは、重い蓄音機を持参して、バンガリー各地の民謡や伝承を録音したそうです。また、収集した民謡はみずからが編曲し、音楽的分析を行いました。こうした研究成果は「ヴァイオリン協奏曲第1番」や「弦楽四重奏第1番」などの比較的初期の作品からみられます。

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2度の戦争、そしてアメリカへ

1914年になると、第一次世界大戦の影響で民謡収集活動ができなくなりました。しかしその分、作曲活動が活発となり、バレエ音楽「かかし王子」や「弦楽四重奏曲第2番」などの傑作を作曲しています。その後、第一次世界大戦で敗戦国となったハンガリーは、国土の大幅な縮小が余儀なくされ、さらに、バルトーク自身もハンガリー評議会共和国に関わっていたことから政治的混乱に巻き込まれました。

なんとか困難を乗り越えたバルトークは、しばらくは作曲活動にブランクがあったものの「舞踏組曲」や「ピアノ協奏曲第1番」などを作曲し、ますます名声を高めていきます(この「ピアノ協奏曲第1番」の初演を指揮したのは、大指揮者のフルトヴェングラーです)。

第二次世界大戦に突入すると、バルトークはナチスドイツの文化政策から逃れるために、アメリカへ渡ることを決意します。コロンビア大学の客員研究員として民族音楽の研究に没頭しますが、アメリカでの生活はバルトークにとって必ずしも心地よいものではなかったようです。生活のために講演会や演奏会などを行ったものの、作曲の意欲がなくなり、ほとんど新作を作曲しなくなってしまいました。

戦争の影響で収入に不安があったバルトークでしたが、その頃アメリカに滞在していた指揮者のフリッツ・ライナーやクーセヴィツキーなどの援助もあり、作曲や民族音楽の研究を再開することができました。研究者、作曲家、演奏家として活躍したバルトークですが、1940年代に入ると体に異変が起き始めます。一時は回復の兆候がみえたものの、1945年ニューヨークにてその生涯に幕を降ろしました。亡骸(なきがら)はニューヨークに埋葬され、その後ハンガリーの民主化にともない、祖国ハンガリーに国葬として埋葬されました。

性格は?

知的で学者肌だったバルトークですが、こんなエピソードが残っています。

自分の作品が思った通りのテンポで演奏されないことに怒ったバルトークは、楽譜の指示の中に「○分○秒」といったように演奏時間を指定するようになりました。このことから、かなり繊細な性格で、かつ音楽に厳密であったことが伝わります。

死因は?

1940年代に入り、バルトークは体調不良に悩まされます。1942年には頻繁に発熱に苦しみ、翌年1943年は療養のためあらゆる活動を中止しました。その後、わずかに体調が回復したバルトークは、妻のために作曲していた「ピアノ協奏曲3番」やウィリアム・プリムローズから委嘱された「ヴィオラ協奏曲」などの作曲を試みますが、どちらも完成を待たずに1945年、64歳でこの世を去りました。死因は白血病でした。

まとめ

いかがでしたか?今回はバルトークの人生をご紹介しました。ハンガリーの民族性を研究し、新しい音楽スタイルを確立したバルトークの作品は、人の心を惹きつける音楽的豊かさにあふれています。あまりクラシックを聴かない方には少し手を出しづらい作曲家かもしれませんが、これを機にぜひバルトークの作品に触れてみてください。

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