ハンス・フォン・ビューローってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Hans von Buelow: A Life for Music

ハンス・フォン・ビューローは、1830年にドイツのドレスデンに生まれた指揮者、ピアニストです。リストやワーグナー、ブラームスらと親交を深め、19世紀のクラシック音楽界において大変な人気を獲得しました。また、優れたピアニストとして活躍した一方で、「職業指揮者の先駆者」としてもその名が知られています。私たちが一般にイメージする指揮者のスタイルを最初に「職業として」確立したのがビューローでした。

ハンス・フォン・ビューローの生涯について

では、偉大な功績を残したハンス・フォン・ビューローはどのような人生を辿ったのでしょうか。今回はエピソードを交えつつ、彼の人生を解説します。

法学者を取るか、音楽家になるか

ハンス・フォン・ビューローは1830年、ドイツのドレスデンに生まれました。音楽家の家庭に生まれたかと思いきや、意外にもそうではなく両親はビューローに対し法律を学ぶように望んだそうです。

9歳でピアノを習い始めたビューローは、音楽の才能に恵まれていたものの、両親の意向に添い、法律を勉強する傍ら趣味として音楽の勉強を続けます。両親がフランツ・リストと知己だったこともあり、10代の頃にすでにリストと出会っており、のちに2人は師弟関係を結ぶこととなります。またこの頃のビューローは、リストやベートーヴェンの作品を夢中になって聴いていたそうです。

法律で学位を取るためライプツィヒ大学に通ったビューローでしたが、一方で音楽家になる夢を諦めきれず、両親の離婚を機にベルリン大学へ移籍します。その後ビューローはワイマールを訪れ、リストと再会したことをきっかけに、本格的に音楽の道を志します。ワイマール宮廷楽長を務めていたリストの指揮やピアニストとしての活躍に、強い感銘を受けたことも、音楽家を目指すきっかけになったのかもしれません。

リストと師弟関係を結んだビューローは、リストの元でベートーヴェンやショパン、シューマンといったロマン派の作品を徹底的に学んだと言います。

輝かしい指揮者デビュー

その後1853年、リストにピアノの実力を認められたビューローは、ドイツやオーストリアなどの国々を演奏旅行で周り、大きな成功を収めます。そして1855年、ベルリンにあるシュテルン音楽院のピアノ教師として招かれたビューローは、イタリア音楽一辺倒だったベルリン音楽界の風潮を打破するかのごとく、フランクやリスト、シューマンの室内楽といった同時代の作曲家たちの作品を積極的に取り上げます。

またこの頃、ビューローの元にリストの娘コジマが通い始め、やがて1857年に2人は結婚。2人の子供を授かりました。師弟関係を超え、リストと親戚関係となったビューローですが、やがてコジマとの関係が冷え切ると、1869年に2人は離婚。2人の離婚の背景には、ワーグナーとコジマの関係が大きく関わっており、コジマとの離婚をきっかけに、ビューローはワーグナーから距離をおくこととなりました(余談ですが、2人の離婚が成立するまでの間に、ワーグナーとコジマには3人の子供が生まれています)。

それでも、ビューローはワーグナー作曲『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の初演を指揮するなど、ピアニストとしてだけではなく、指揮者としての名声を着実なものとしています。

音楽監督を歴任、ベルリン・フィルの首席指揮者となる

コジマとの離婚後、心機一転とばかりにイタリア・フィレンツェに赴いたビューロー。イタリアでの生活はビューローに新たな英気をもたらし、その後1871年から1872年にかけて、ドイツを始め、ポーランド、イタリアの各主要都市を演奏旅行で周り、大きな成功を収めました。

そしてヨーロッパにおいて名実共に大きな名声を得たビューローは、ハノーファー宮廷楽長(1878年から1880年)、マイニンゲン宮廷音楽監督(1880年から1885年)を歴任し、1887年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の主任指揮者に抜擢されます。この人事はベルリン・フィルに熱狂的な成功をもたらし、ビューローの名を不動なものとしました。

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ベルリン・フィル在籍時のビューローは、モーツァルトやベートーヴェンといった古典派の作品はもちろんのこと、チャイコフスキーやドヴォルザーク、ベルリオーズといった同時代の作曲家も積極的に取り上げ好評を博したそうです。

1889年と1890年の2度にわたり、アメリカ演奏旅行を成功させたビューローですが、帰国後から健康状態が悪化し、1894年2月、療養先のエジプトのカイロで帰らぬ人となりました。享年64歳でした。

性格を物語るエピソードは?

ハンス・フォン・ビューローのエピソードにはどのようなものがあるのでしょうか。興味深いエピソードがいくつもありますので、本記事を機会に、ぜひ覚えておいてください。

命名の名手

優れたピアニスト・指揮者として人気を博したビューローは、同時に鋭い観察眼をもった教養人でもありました。そんな彼のエピソードとして有名なものに「ドイツ3B」が挙げられます。

「ドイツ3B」とは「バッハ・ベートーヴェン・ブラームス」の3人の頭文字Bから取られたものです。そして、今日知られる「ドイツ3B」という言葉を生み出したのがビューローだと言われています。

これに関連して、バッハ作曲『平均律クラヴィーア曲集』をピアノ曲の「旧約聖書」、ベートーヴェンによる32のピアノソナタを「新約聖書」と命名したのもビューローです。

近代指揮法の先駆者

今でこそ、指揮者が演奏家の前に立ち演奏をリードする姿が一般的ですが、ビューローが登場する以前は必ずしもそうではありませんでした。もう少し時代を遡ると、バロック時代には指揮者という明確な役割は存在せず、作品の指揮は作曲者自らが拍子を取る程度のものだったのです。

そのような流れにあって、やがて指揮者自身が「作品の解釈や表現」を深めるようになり、今日見られるような指揮スタイルへ発展します。その指揮者としての役割を最初に重要視し、指揮者の役割を大きく変えたのがビューローでした。

指揮者が作品を解釈し表現を広げるという考えは、ビューローの師ワーグナーによるところが大きいものの、近代指揮法を確立したのは、紛れもなくビューローその人だったと言えるでしょう。

驚異的な記憶力の持ち主だった

指揮者という職業を確立したビューローは、驚異的な記憶力の持ち主だったことでも知られています。ロッシーニのオペラ『セビリャの理髪』を指揮した時のこと。ビューローは総譜すべてを暗記し初演に臨んだと言われています。

また、リスト作曲『ファウスト交響曲』の初演の際にも、すべてのパートを暗譜していたそうです。このことについてビューローは「私はすべての譜面を頭に入れ、楽曲を意のままに操れた」と述べています。

ビューローの死因について

1889年と1890年の2度に渡り演奏旅行のためにアメリカに渡ったビューロー。しかしこの頃から、かねてより悩まされていた頸部腫瘍による頭痛が悪化し、健康状態を崩し始めます。そして1892年に開かれたコンサートを最後に、ビューローは音楽家活動を引退し、治療に専念することに。

翌年1893年にはベルリンの病院に入り、さまざまな治療を試みるも回復には至らず、1894年滞在先のエジプト・カイロのホテルでこの世を去りました。享年64歳でした。

残念ながら詳しい死因はわかりませんでしたが、ビューローが生前書き記した膨大な書簡やスケッチは、現在、ベルリン州立図書館に保管されています。

まとめ

今回は指揮者シリーズとしてハンス・フォン・ビューローを取り上げました。指揮者、演奏家として優れた才能を発揮したビューローは、「名付け親」の名人でもあったようですね。残念ながら、ビューローによる指揮の録音は残っていませんが、言い伝えられているところによると、その指揮ぶりは快活なテンポと表情豊かな演奏だったそうです。この記事を機会に、リストやワーグナー、ブラームスと共に19世紀のクラシック音楽界を盛り上げた、ハンス・フォン・ビューローについて少しでも知っていただければ幸いです。

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