フレデリック・ディーリアスってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ディーリアス・ボックス(生誕150年記念)

「イギリスを代表するクラシック音楽家といえば?」と問われたら、貴方は誰を挙げるでしょうか?。組曲『惑星』の作者として有名なホルストでしょうか、それともイギリス第2の国歌と称される『威風堂々』の作曲者エルガーでしょうか。

いずれにしても、作品は知っていても作曲家の名前まで答えられる人は少ないかと思います。今回解説するフレデリック・ディーリアスもそんな作曲家の一人。本国イギリスでは絶大な評価を得ているものの、日本でのディーリアスの認知度はまだまだ低いのが現状です。

そこで本記事では、フレデリック・ディーリアスの生涯について解説します。

フレデリック・ディーリアスの生涯について

フレデリック・ディーリアスはどのような生涯を送ったのでしょうか。調べてみると、まさに「自由奔放」という言葉がピッタリの人物でした。

裕福な家庭に生まれる

フレデリック・ディーリアス(以下ディーリアス)は、1862年、イギリス・ヨークシャーにて4男10女の次男として生まれました。両親は元々ドイツの家系でしたが、羊毛ビジネスのため渡英し、のちにイリギスに帰化しています。

羊毛ビジネスで成功を収めた両親は音楽一家でもあり、大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムが自宅で演奏を披露することもあったそうです。そんな影響からか、ディーリアスは自然にヴァイオリンに親しむようになり、最終的にその腕前はヴァイオリン教師になれるほどだったと言います。

幼少期のディーリアスは、モーツァルトやベートーヴェンといった古典派の音楽に関心を持ちますが、のちにその関心はショパンやグリーグといったロマン派へと移行します。子供の頃から音楽に強い関心を抱いたディーリアスですが、音楽学校へは進学せず、地元のインターナショナル・カレッジに通い青春時代を過ごします。ちなみに学校の勉強にはほどんと関心を持たず、不勉強な学生だったそうです。

父親の思いとは裏腹に

学校を卒業すると、事業を営む父はディーリアスに家業を継ぐよう強く説得します。そんな父の説得により、しぶしぶビジネスマンとして働いたディーリアスですが、性に合わなかったのか、仕事をほっぽり出して音楽に熱中します。

これに痺れを切らした父は、オレンジのプランテーションを運営させるため、ディーリアスをアメリカ・フロリダへと向かわせました。しかしここでもディーリアスはオレンジ栽培には関心を示さず、現地で知り合ったオルガニストから作曲指南を受ける毎日を送るようになります。

ディーリアスがフロリダに滞在したのは1884年の春から1885年の秋までという短い期間でしたが、現地で聴いた黒人霊歌はディーリアスの感性を刺激し、のちの管弦楽組曲『フロリダ』を生み出すきっかけとなりました。

ヨーロッパ時代、そして作曲家へ

ディーリアスの音楽熱に観念したのか、1886年になり、父はようやくディーリアスが音楽道に進むことを許可します。これによりヨーロッパへと戻ったディーリアスは、ライプツィヒ音楽院に進学し、本格的に作曲を学び始めます。

ライプツィヒではマーラーやブラームス、チャイコフスキーといった大作曲家の作品に直に触れましたが、なかでもディーリアスにとって重要となったのはエドワード・グリーグと出会ったことでした。

ディーリアスの管弦楽曲『フロリダ』を聴いたグリーグはその作品を絶賛し、それ以降、支援者としてディーリアスを親身に支えてくれる存在となります。

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そしてライプツィヒを後にしたディーリアスはその後パリへ移住し、交響詩『頂にて』やオペラ『魔法の泉』など次々と意欲的に作品を発表。第1次世界大戦の影響により、一時期作曲活動から遠ざかるものの、20世紀初頭から再び旺盛に作品を発表し、イギリスを代表する作曲家として知られるようになります。

失明しながらも作曲した晩年

しかしそんなディーリアスを徐々に病魔が襲います。1880年代に感染した「梅毒」がディーリアスの体を蝕み始めたのです。病状は徐々に進行し、1928年には全身麻痺を起こし、最終的には視力を失う事態に発展します。

もはや作曲家人生が断たれたかと思われたディーリアスでしたが、彼の信奉者であったエリック・フェンビーが口述筆記を名乗り出たことで作曲が再開され、晩年の傑作が次々と生み出されます。

以降およそ5年間に渡りディーリアスは作曲を続け、歌曲『去り行くつばめ』や『夏の歌』、『ヴァイオリンソナタ3番』などの作品が作曲されましたが、これはまさにエリック・フェンビーの多大な貢献の賜物に他なりません。しかしディーリアスの梅毒の進行は悪化をたどる一方となり、1934年6月10日、ディーリアスはこの世を去りました。

フレデリック・ディーリアスにまつわるエピソードについて

ディーリアスのエピソードにはどのようなものがあるのでしょうか。音楽家に限らず、さまざまな芸術家と交流したようです。

多くの芸術家と交流

ドイツやフランスのパリで音楽を学んだディーリアス。特に当時のパリは新進気鋭の芸術家が集まる芸術の都でした。8年間のパリ滞在中、ディーリアスは作家のストリンドベリ、『叫び』の作者ムンク、ゴーギャンなどと知己を得たことは、ディーリアスの音楽人生に大きな影響を与えました。

なかでも画家ゴーギャンとは親交が深く、ゴーギャン作の絵画『ネバーモア』を購入し、生涯自室に飾り大切にしていたそうです。音楽だけでなく、絵画や哲学などさまざまなジャンルからインスピレーションを受けていたことがわかるエピソードです。

周囲に助けられる愛されキャラ?

家業を継がせようとする父の思惑をのらりくらりとかわしたディーリアスの態度に、ついに父も根負けし、音楽を学ぶことを許可します。ようやく自由の身を手にし、音楽の道を志したディーリアスですが、その道は決して平坦なものではありませんでした。

1903年、ディーリアスは画家として成功していたイエルカと結婚しましたが、肝心の本人の作品はなかなか評価されず、時には経済的に困難な時期もありました。しかし、ディーリアスが困難に陥るたびに支援者が現れ、ディーリアスはことなきを得ています。

もちろんこれは、ディーリアスの評価が次第に高まったことが大きな理由の一つですが、一方で、ディーリアスが「助けたくなるような」魅力のある人物だったためかもしれません。

まとめ

今回はフレデリック・ディーリアスの人生について紹介しました。この記事を通して、ディーリアスという人物を初めて知った方も多いのではないでしょうか。

ディーリアスが生きていた当時はロマン派が全盛期を迎え、新しい表現方法である十二音階技法が流行した時代でした。

しかしディーリアスはそのどの楽派にも属さず、まさに「我が道をいく」音楽人生を送りました。ディーリアスの作品や特徴については、次回の記事で解説しますので、ぜひお楽しみに。

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