[amazon]Complete Works for Piano
アルベニスと並び20世紀のスペインを代表する作曲家マヌエル・デ・ファリャ。幼少期から卓越した楽才を発揮したファリャは、祖国スペインのみならず、パリ、アルゼンチンと渡り歩き、スペイン国民音楽の発展に大きく寄与しました。
ファリャは寡作な作曲家として知られていますが、代表作『三角帽子』は現在も世界中のクラシックファンに愛されている名曲です。
スペイン内戦の勃発により祖国を離れ、アルゼンチンで没したファリャはどのような人生を辿ったのでしょうか。今回はファリャの生涯について解説します。
ファリャの生涯について
ファリャはどのような人生を歩んだのでしょうか。激動の時代の中、祖国を離れたファリャは、パリ、アルゼンチンとその活躍の場を広げます。
ピアノに魅了された少年
マヌエル・デ・ファリャは1876年、スペイン南部の港町カディスに生まれました。バレンシア地方出身の父は商人で、ファリャは裕福な家庭に育ったようです。また、母はピアノに精通しており、幼い頃のファリャは母からピアノの手ほどきを受けています。
幼い頃から類い稀な楽才を見せたファリャは、その後マドリード音楽院に入学し、作曲をフェリペ・ペドレルに、ホセ・トラゴからピアノを学びます(余談ですが、ペドレルは「スペイン国民音楽の父」と称される大物で、トラゴはショパンの孫弟子です)。
また10代の頃のファリャは、音楽の他に文学や社会情勢に関心を持ち、友人らと「エルブルン」「エスカスカベル」といった文学雑誌を創刊しています。ピアノと作曲の双方において優秀な成績を収め、サルスエラ※1『はかなき人生』(『人生は短い』のタイトルもあり)で喝采を浴びたファリャは、パリへ活動拠点を移します。
※サルスエラ・・・スペインの叙情を表現したオペラ
パリ時代
1907年から1914年までをパリで過ごしたファリャ。7年間に及ぶパリでの生活はファリャの創作傾向に大きな変化をもたらしました。パリ滞在後、ポール・デュカスにより早くからその才能を見出されたファリャは、『はかなき人生』のパリ公演により大成功を収めます。
その後デュカスが仲介役となり、リカルド・ヒュニスやモーリス・ラヴェルと知遇を得たファリャは、ラヴェル主催の芸術サークル「アバッシュ」に参加するなど、多くの芸術家と交流を深めました。またクロード・ドビュッシーと出会ったのもパリ滞在時のことです。
ファリャの代表作『恋は魔術師』や『三角帽子』などの作品は、パリ滞在中に獲得した印象派の手法が余すことなく表現されています。さらに1910年、イーゴリ・ストラヴィンスキーと出会ったことで、新古典主義の要素を吸収したファリャは、スペイン民族主義と印象派音楽、そして新古典主義の融合という新しいジャンルを開拓しました。
再び祖国へ、そしてアルゼンチンでの晩年
第1次世界大戦勃発と時を同じくしてパリを去ったファリャ。1914年に祖国スペインへ帰国したファリャは、アンダルシア地方のグラナダに居を構え作曲活動を続けます。この時期に作曲された『ペドロ親方の人形芝居』や『クラヴサン協奏曲』、バレエ音楽『恋は魔術師』、『三角帽子』などの作品群はファリャを最も代表する作品として好評を博し、ファリャの名声を不動のものへ押し上げました。
しかし1936年、スペイン内戦が始まり身の危険を感じたファリャは、新天地を求めてアルゼンチンへ渡ります。アルゼンチンへ渡ってから3年後、無事に亡命を果たしたものの、肉体的な衰えがファリャを苦しめます。度重なる精神的・肉体的疲労が祟ったのか、晩年の彼の生活は寝たきりで過ごすことが多かったと言います。
アルゼンチン滞在中、スペインのフランコ政権から「多額の年金を約束する」として再三にわたり帰国要請があったものの、ファリャはこれを頑なに拒否。その後1946年、アルゼンチンのコルドバにてこの世を去りました。享年69歳。遺体はアルゼンチンに埋葬されましたが、翌1947年に祖国スペインに戻され、国葬が執り行われています。
性格を物語るエピソードは?
ファリャのエピソードを紹介します。ファリャの音楽に対する情熱は、生涯揺るぎないものだったようです。
コレラが流行ってもピアノを弾き続けた
ある時、ファリャの住む街でコレラが流行した時のこと。ファリャ一家は感染を避けるために、セビリャのホテルへ避難します。家族はコレラの流行が収まるまで大人しく待機する予定でしたが、ファリャだけは違いました。
なんとファリャは大変な状況にもかかわらず、ホテル備え付けのピアノの前に座り、朝から晩まで一日中ピアノを練習していたそうです。さすがにホテルの宿泊客からも苦情が殺到したそうですが、ファリャの音楽に対する情熱が凄まじかったことがわかります。
新しいオーケストラを立ち上げる
スペイン内戦の勃発(1936年から1939年)により、政情が不安定となったスペイン。物資もままならず、人々は貧困にあえいでいました。スペイン内戦の影響は音楽家にも波及し、楽器を揃えるのもままならない状況だったといいます。
しかしそのような状況にありながらも、ファリャは新しいオーケストラを立ち上げ、復興の道を模索します。ファリャにとって音楽とは、「生きること」そのものだったのかもしれません。
潔癖な性格だった?
愛を歌う情熱的な旋律をいくつも作曲したファリャですが、ファリャ自身は生涯独身を貫いたことからも推察できるように、かなり潔癖な性格だったと言われています。
ある日、彼を見つけたファンの女性から「恋は魔術師を作曲した方と握手を!」と握手を求められます。しかしファリャは両手を挙げてその場から逃げ出し、「あの曲を書いたことを呪う」とつぶやいたそうです。作品からは想像できない、ファリャの意外な一面が垣間見られるエピソードです。
まとめ
今回は激動の時代に生きたファリャの生涯について解説しました。情熱に溢れる躍動的なファリャの旋律は、現在もなお多くのクラシックファンを魅了し続けています。ファリャの名前を初めて聴いた方も多いと思いますが、本記事を機会に、魅惑のファリャの世界を堪能してみてはいかがでしょうか。
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