リヒャルト・ワーグナーってどんな人?その生涯と性格は?

出典:[amazon]リヒャルト・ワーグナー:オペラ名曲集(Wagner: Transcribed For Solo Piano)

リヒャルト・ワーグナーは、19世紀に活躍した作曲家で、楽劇王という別名でも知られています。ワーグナーは無限旋律と呼ばれる手法を用いることで、それまでの番号オペラとは違い、歌劇全体を1つの音楽としました。番号オペラとは、当時の伝統的なイタリアオペラの形式で、アリア、重唱、合唱などに順番に番号が付けられていたものです。ワーグナーはこの形式を、音楽が途切れてしまっていると感じていたことから、全てを1つの音楽とすることにこだわりました。

またワーグナーは、ベートーヴェンの「交響曲第9番」、いわゆる第九と呼ばれる曲とも関わりがあります。ベートーヴェンの音楽は、ワーグナーにとって音楽家を志すきっかけでした。そしてピアノ版の編曲をするほど第九に注目していましたが、実は第九は当時あまり演奏されていなかったのです。しかし後に、宮廷指揮者となったワーグナーによって、第九は復活を果たします。反対の声があがる中で第九の演奏を提案したワーグナーは、反対派を説得することに尽力すると、指揮者としてステージに立ち演奏を大成功させました。そこから第九が演奏される機会が増え、広まっていくきっかけとなったのです。

ワーグナーの生涯

ワーグナーは自身の性格によるものか、波乱万丈な人生を送りました。そんな中でも大きな出来事をいくつか紹介します。

1813年ライプツィヒで生まれる

ワーグナーは誕生して間もなく下級官吏だった父を亡くしました。音楽好きだったワーグナー家に生まれたことで、幼い頃音楽は身近なものだったようです。10代でベートーヴェンの音楽に影響を受け音楽家を志しますが、移り気な性格だったのか、その興味は交響曲だけでなく歌劇へと移っていきます。

交響曲ハ長調を完成させた頃に歌劇も作曲しようとしていますが、その歌劇「婚礼」は完成されませんでした。未完成の理由は、当時ワーグナーが意見をよく聞いていたとされる姉に、曲を否定されたためという説があります。逆に、完成させた交響曲ハ長調ですが、交響曲で完成されているのはこの1曲のみとなっています。

ザクセン宮廷指揮者に任命される

パリ時代、作曲した「リエンツィ」をパリで上演したいと望んでいたワーグナーでしたが、それは叶いませんでした。しかし1842年、ザクセン王国ドレスデンで初演が決まり、大成功をおさめます。そこから注目されるようになると、翌年にはザクセン宮廷指揮者に任命され、その数年後には尊敬していたベートーヴェンの第九の演奏を実現させました。

革命と亡命

1848年のフランス革命に続き、ドイツでも革命が起こりました。1849年、ドレスデンで起こったその革命運動に参加していたワーグナーは、運動が失敗に終わると指名手配の身となってしまいます。スイスへと亡命しましたが、その後長い亡命生活を送ることになりました。後の代表作となる「トリスタンとイゾルデ」は、この期間中に作曲されています。また亡命中、自身の代表作となる「ローエングリン」の初演が行われますが、本人が見ることはできませんでした。

バイロイト祝祭劇場

この劇場は、ワーグナーが自分の作品を上演するために建てたオペラハウスです。バイロイト祝祭劇場では、毎年バイロイト音楽祭が開かれ、ワーグナーの曲のみが演奏されています。しかし工事を始める記念として、ワーグナー自身が第九の指揮をしたことから、第九は例外とされ何度か演奏をされてきました。

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ワーグナーとはどんな人物だったのか

ワーグナーの音楽を愛する人たちのことをワグネリアンと言いますが、その中にはあのフリードリヒ・ニーチェの名前も入っています。ニーチェは若い頃からワーグナーの熱狂的なファンでしたが、バイロイト祝祭劇場が完成した頃から、次第にワーグナーのもとを離れていきました。ワーグナーは音楽で人の心をつかみますが、人間性によって周りの人は離れていっています。

性格に難あり

お金遣いが荒く借金の多い人生で、多額の借金を踏み倒すこともあったようです。そして驚くほどの自信家であったことから、唯我独尊というイメージが強く残っています。

身長にコンプレックス

身長が167cmほどの小柄だったことから、背の高かった後妻のコジマに対してコンプレックスがあったようです。一緒に写る写真には、そのコンプレックスのためか、差が目立たないような工夫がされています。

反ユダヤ主義

反ユダヤ主義として知られるワーグナーですが、実は母親の再婚相手がユダヤ人だったという説や、その再婚相手が本当は実父だったのではないかという説もあります。またユダヤ人に対して攻撃的な一方で、一部のユダヤ人演奏者を自身の作品に起用することもありました。

ワーグナーに関わった人たち

関係のあった有名な人物はたくさんあげることができますが、その中でもワーグナーの人生の節目に大きく関係した人物を紹介します。

コジマ

フランツ・リストの娘コジマは、リストの弟子だったハンス・フォン・ビューローと結婚後、2人の子供を産みました。しかしワーグナーと出会うと、不倫関係のまま子供を1人産んでいます。ワーグナーも他の女性と結婚していましたが、その女性が病気で亡くなると、コジマと同棲を始めました。そしてコジマとワーグナーの間には、さらに2人の子供が誕生しますが、コジマがビューローと正式に離婚をしたのはその後のことです。

ハンス・フォン・ビューローについて少し補足をすると、もともとはワーグナーの音楽を愛した1人で、当時近隣の音楽界がブラームス派とワーグナー派に分かれた際には、ワーグナー派に属していました。しかし妻コジマとの不倫があってからブラームス派に移っています。また有名な「ドイツ三大B」という言葉は、このビューローがそのように呼んだことから広まりました。

フランツ・リスト

ワーグナー亡命時、スイスへと逃れるワーグナーを助けたのはリストでした。そしてワーグナーとコジマの再婚により、リストはワーグナーの義理の父となっています。

バイエルン国王ルートヴィヒ2世

1845年に生まれたルートヴィヒ2世は、幼い頃からワーグナーに憧れをもっていました。即位後ワーグナーを宮廷に招きますが、それがコジマとワーグナーの不倫のきっかけとなってしまいます。また1872年、バイロイト祝祭劇場を建設する際にはワーグナーを援助しました。ルートヴィヒ2世もワグネリアンの1人だったとされています。

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