グスターヴ・ホルストってどんな人?その生涯・生い立ちは?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]The Collector’s Edition: Gustav Holst

グスターヴ・ホルスト(以下ホルスト)という作曲家をご存じですか?ホルストは「威風堂々」を作曲したエルガーと並びイギリスのクラシック音楽界を代表する人物です。なかでもホルストが作曲した組曲「惑星」は、クラシック音楽の枠を超えて全世界的に愛されている名曲とされています。そんな名曲「惑星」を作曲したホルストはどのような生涯を歩んだのでしょうか。今回はホルストの生涯についてご紹介します。

ホルストの生涯について


ホルストは1874年、イギリス南西部グロスター州のチェルトナムに生まれました。父・アドルフはピアニストだったため、幼い頃から厳しいピアノ指導を受けたそうです。しかしホルストは幼少の頃から極度の近視と喘息持ちで体が弱かったため、父のピアノ指導についていくのが精一杯だったと言われています。そんなホルストは、学校に入学すると独学で作曲を学び始めます(このときの参考書はベルリオーズの「器楽法」でした)。

17歳になったホルストは、地元の合唱団で指揮するなど、少しずつ音楽活動の幅を広めていきます。しかし同時に、この頃から右手の神経炎に悩まされることになり、ピアニストの道を断念することになります。その後1893年、ロンドンの王立音楽院に入学したホルストは、作曲家・スタンオードに師事しながら本格的に作曲の勉強を始めます。また、副専攻としてトロンボーンを選択し、卒業後は一時期トロンボーン奏者として生計を立てていました。1901年には、合唱団で最年少ソプラノ歌手だったイゾベル・ハリソンと結婚しています。

ホルストの学生時代は、他の作曲家にありがちな「天才的」エピソードはあまりなく、作曲を師事したスタンフォードからもあまり評価は得られなかったようです。また王立音楽院時代のホルストは、リヒャルト・ワーグナーの音楽に傾倒し、ワーグナーの演奏会がある日には行列に並んで立ち見席のチケットを購入するほどの熱中ぶりでした。
王立音楽院を卒業後のホルストは、劇場の団員となりスコットランド管弦楽団にトロンボーン奏者として参加するようになります。しかしホルストは作曲家になることを諦めきれず、トロンボーン奏者を引退して作曲家を志します。

1905年になると、セント・ポールズ女学校の音楽教師の話が舞い込み、ホルストが亡くなる1934年まで音楽教師を務めることになります。それと同時に夜間学校でも教鞭をとり、イギリスで初めてバッハのカンタータを演奏したと言われています。ホルストは教育熱心で平日は忙しかったため、おもに週末と夏休みに集中して作曲活動をしたそうです。

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やがて第1次世界大戦が勃発し、ホルストも徴兵されます。しかし目が悪く右手の神経炎もあったため徴兵を免れ、その代わりに1918年として、イギリス陸軍教育計画の音楽組織係として中東へ派遣されます(このときの影響がホルストの作風に大きな影響を与えています)。その後中東から帰国したホルストに大きな転機が訪れます。ホルストが中東に駐在している間に、以前から作曲していた組曲「惑星」が本国で初演され空前の大ヒットとなり、本人の知らない内にホルストは一躍時代の寵児(ちょうじ)となりました。

組曲「惑星」の次に発表した「イエスの讃歌」も大成功を収め、傑作として聴衆に迎えられます。これ以降、ホルストに出版依頼が次々と舞い込み、新曲の発表や、かつての楽譜の改訂に追われるようになります。しかし1923年、指揮中に指揮台から足を踏み外し転落し、後頭部を強く打つ事故にあってしまいます。これ以降、ホルストは頭痛や不眠に悩まされる休養生活を余儀なくされます。療養生活を終えたホルストは、セント・ポールズ女学校での音楽教師以外の仕事を辞めて、1927年から1933年まで作曲に専念しました。しかし発表した作品はどれも聴衆を失望させるものばかりで、晩年のホルストの作品は評価されなかったようです。

作品自体は評価されなかったものの、1930年にはアメリカのイエール大学からハウランド賞を受賞したり、ハーバード大学から招かれるという名誉ある晩年を送りました。生涯にわたり女学校の音楽教師を勤めたホルストは、1934年、出血性胃潰瘍のためこの世を去りました。享年59歳でした。ホルストと共にイギリスを代表する作曲家エルガーも同年に亡くなっています。

性格を物語るエピソードは?

王立音楽院時代に師事した作曲家・スタンフォードからはあまり評価されませんでしたが、ホルストは後に「スタンフォードから自己批判の精神を学んだ」と回顧しています。また、組曲「惑星」や「イエスの讃歌」で大成功を収めたホルストでしたが、友人に宛てた手紙のなかで「誰もが自分のことを良く言う時代こそ災いである」と書いています。この2つのエピソードから、ホルストはとても謙虚な性格であったことがわかります。

死因について

組曲「惑星」の大ヒットによりトップスターの仲間入りしたホルストは、新曲の依頼や出版依頼に応えるために仕事で忙殺されます。仕事が増えすぎた影響で過労で倒れてしまい、医者からドクターストップを言い渡されることもしばしばでした。1934年、胃の調子を悪くしたホルストはロンドンで手術を受けますが、完治することはなく出血性胃潰瘍のため亡くなりました。

まとめ

ホルストの生涯についてご紹介しました。ホルストは芸術家としては珍しく名誉欲や金銭欲があまりなかったそうです。それよりもホルストが大切にしていたのは、「芸術家としての信念」でした。組曲「惑星」ばかりが有名ですが、ホルストは他にも多くの作品を残していますので、未だ見ぬ名曲を探してみてはいかがでしょうか。

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