アルバン・ベルクってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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アルバン・ベルクは1885年にオーストリアで生まれた20世紀を代表する作曲家です。12音技法を生み出したアルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンらとともに無調音楽や12音技法の探求に生涯を捧げました。彼ら3人は新ウィーン楽派と称され、20世紀のクラシック音楽界に、革命的変革をもたらしたことは知る人も多いでしょう。では、新ウィーン楽派の中核をなすアルバン・ベルクはどのような生涯を送ったのでしょうか。今回はアルバン・ベルクの人生について解説します。

アルバン・ベルクの生涯

青年時代から文学や音楽に鋭い才能を示したベルクの人生は、シェーンベルクとの出会いにより大きな転換点を迎えます。

波乱の青年時代

アルバン・ベルク(正式名アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク)は1885年、オーストリアのウィーンに生まれました。父は輸出業や書籍業で成功した人物で、兄2人と妹1人と共に裕福な幼少期を過ごしています。早くから文学や音楽に関心を示したベルクは、独学で作曲を開始し、ゲーテやシュトルム、リルケの詩をもとに数十曲に及ぶ歌曲を作曲したそうです。

しかしベルクが15歳の頃に父が心筋梗塞により急逝し、一家は経済的困窮に陥ります。さらには、ベルクの別荘で働いていた女性マリー・ショイヒルとの間に私生児が生まれ、ベルクは17歳という若さで1児の父になることに。

また、この時期のベルクは学業不振や失恋などの影響で精神不安となり、自殺を図るまでに追い込まれます。しかしそのような状況ながらも、なんとかギムナジウムを卒業したベルクは、卒業後は公務員として働き始めます。

ウィーン音楽院入学

その後1904年、ベルクの兄がシェーンベルクに作品を持ち込んだことで、ベルクの人生に大きな変化が訪れます。幸いにもシェーンベルクの下で音楽を学ぶ許可を得たベルクは、早々に公務員を辞職したのち、ウィーン音楽院へ進学。音楽院では新ウィーン楽派におけるもう1人の重要人物ヴェーベルンと出会い、以降2人は生涯に渡り親交を深めることになります。

ウィーン音楽院時代、シェーンベルクの弟子となり12音技法を学んだベルクですが、意外にも、在学当時に夢中となった作曲家はグスタフ・マーラーでした。ベルクはコンサート会場にも足繁く通うほどのマーラーファンだったらしく、ときには演奏後にマーラーの楽屋を訪ねる事もあったそうです(後年、マーラーの妻エルマと交流を持つに至ります)。

そしてウィーン音楽院卒業後の1907年、『4つの歌曲』で作曲家デビューを果たしたベルクは、新進気鋭の作曲家として20世紀のクラシック音楽の歴史に大きな痕跡を残すこととなります。

『ヴォツェック』の成功と晩年

作曲家としてデビューしたベルクですが、デビュー当初は必ずしも順調な滑り出しとは言えませんでした。というのも、後期ロマン派や印象主義が隆盛を迎えていた当時の音楽界において、無調音楽や12音技法を用いた作品は、あまりにも前衛的過ぎるものでした。そのため聴衆からのバッシングも珍しくなく、ベルクは一時期、作曲家引退も考えたといいます。

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しかしそれでも作曲家を続けることを決意したベルクは、1914年、作家ゲオルク・ビューヒナーの戯曲『ヴォイツェック』に魅せられ、同作のオペラ化を企画します。まもなくベルクはオペラ制作に取り掛かったものの、第1次世界大戦の勃発により兵役に服することとなり、中断を余儀なくされます。

その後、一時休暇を与えられたベルクは作曲を再開し、最終的にオペラ『ヴォツェック』が完成したのは、構想から8年を経た1922年のことでした。オペラ『ヴォツェック』は1925年に初演が行われ、初演前には大小合わせて150回にも及ぶリハーサルが行われたそうです。

『ヴォツェック』の初演は賛否両論が交わされたものの、この作品によりベルクの名声は揺るぎないものとなり、現在ではドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』と並び、20世紀オペラの2大傑作と評されています。

『ヴォツェック』の成功により大きな名声を得たベルクですが、ナチス・ドイツ政権が生まれると、「退廃音楽」としてドイツでの演奏が禁止となります。その後、ナチス・ドイツの迫害を逃れるためにアメリカへの亡命を決意したベルクは、新天地アメリカにて作曲活動を行いました。

1935年、アルマ・マーラーと2番目の夫ヴァルター・グロピウスの娘マノンが18歳という若さでこの世を去ります。ベルクもマノンを可愛がっており、彼女の訃報に接したベルクは速筆で『ヴァイオリン協奏曲』(ある天使の思い出に)を書き上げ、マノンの死を悼んだと言います。

ところが、完成する直前に虫に刺され、それが原因で体調を崩したベルクは、手術の甲斐も虚しく敗血症のため同年12月に帰らぬ人となりました。享年50歳という若さでした。他者へのレクイエムとして生み出した作品が、皮肉なことにベルク自らに捧ぐレクイエムとなったようです。

性格を物語るエピソードについて

数奇な運命を辿ったベルクの人生には、どのようなエピソードがあるのでしょうか。

10代で1児の父、そして自殺未遂を図る

10代半ばまで裕福な生活を過ごしたベルクですが、父の突然の死によりその生活は一変します。そして何よりもベルクを窮地に追い詰めたのは、17歳で1児の父となったことでした(自業自得のような気もしますが)。そして10代の多感な時期も相まって、学業不振と恋愛に絶望したベルクは自殺未遂を図ります。結局、自殺は未遂に終わったものの、青年時代のベルクは、かなり衝動的な性格だったことがうかがえます。

まとめ

今回は新ウィーン楽派の中心人物の1人、アルバン・ベルクの生涯を解説しました。現代音楽と聞くと、とっつきにくさを感じる方が多いと思います。しかしベルクは12音技法の中にも後期ロマン派的「聴きやすさ」を取り入れ、彼独自の表現方法を模索しました。現代音楽になんとなくアレルギーがある方は、入門として、まずはベルクの作品から聴いてみてはいかがでしょうか。

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