サミュエル・バーバーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]「サミュエル・バーバー(1910-81)の歴史的録音集1935-1960」

サミュエル・バーバーという作曲家をご存知ですか?もしご存知であれば、あなたはかなりのクラシック通かもしれません。日本ではそれほど知名度は高くないものの、バーバーはピューリッツァー賞を始め、多数の名誉ある賞に輝いています。代表作には『弦楽のためのアダージョ』があり、慰霊や追悼の定番曲として使われているほか、映画音楽の挿入曲としても使用されているため、作品を聴いたことがある方も多いのではないでしょうか。そんな20世紀アメリカを代表する作曲家バーバーとはどのような人物なのでしょうか。今回はバーバーの生涯について、エピソードを交えながら解説します。

バーバーの生涯について

その生涯を辿ってみると、バーバーの生涯は「音楽に捧げるための生涯」だったことがわかりました。ここではバーバーの人生について順に紹介します。

幼少の頃から楽才を発揮

サミュエル・バーバーは1910年、アメリカ・ペンシルベニア州ウエストチェスターに生まれました。父は外科医、母はアマチュアピアニストとして活躍していたため、何不自由ない裕福な幼少期を過ごしています。また教育熱心だった父は、地元ウエストミンスター教育委員会の会長も務めており、バーバーには自分と同じ医者の道に進むことを望んでいたそうです。

そんな父の思いをよそに、バーバーは6歳で母からピアノの手ほどきを受け始め、早くから類い稀な楽才を発揮します。その後、9歳から本格的なピアノ教師に師事したのち、わずか14歳で名門カーティス音楽院に入学。同音楽院でピアノ、作曲、指揮を学び、指揮法をフリッツ・ライナーに師事しています。余談ですが、カーティス音楽院時代の同級生にはレナード・バーンスタインがいました。

音楽院での9年間に及ぶ勉強を経て、最優秀でカーティス音楽院を終えたバーバーは、1935年、奨学金を得てイタリア留学を果たします。

若くして成功

若きバーバーにとってのイタリア留学は、多くのインスピレーションをもたらしました。その例として『弦楽のためのアダージョ』の原曲となる『弦楽四重奏曲ロ短調』は、イタリア留学中に作曲されています。

イタリア留学から帰ったバーバーは、作曲家、演奏家、バリトン歌手として活躍し、次第にその名声は世に知れ渡ることになります。そして1938年、トスカニーニの指揮により初演された『弦楽のためのアダージョ』が大好評を収め、バーバーは一躍クラシック音楽界の時の人として注目され始めます。

やがて大2次世界大戦に突入したことで、バーバーも徴兵を受けたものの、戦地でも作曲する機会を得て『交響曲第2番』や『コマンド・マーチ』といった代表作を次々と発表します。

世界的作曲家、そして晩年

戦後、しばらくの間カーティス音楽院で教鞭をとったバーバーは、『ピアノ・ソナタ』(1949)、『エルミットの歌』(1953)、『キルケゴールの祈り』(1954)などの作品を発表し、その後、最初のオペラ『ヴァネッサ』に着手します。ジャン・カルメ・ロッティの台本による『ヴァネッサ』は、聴衆と批評家から高評価を獲得しており、バーバーはオペラ作曲家としても成功を収めます。

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しかし成功したのも束の間。3番目のオペラ『アンソニーとクレオパトラ』(1966)が完全な失敗に終わったことを受けて、バーバーはうつ病に罹り、5年間の隠遁生活を送ります。
その後、『アンソニーとクレオパトラ』を改訂したバーバーは、1975年にこれを再演し、初演から9年目にしてようやく成功を収めることになりました。

その後も世界的作曲家として活躍したバーバーですが、1981年1月23日、リンパ腺癌によりこの世を去りました。享年70歳。亡骸は故郷のウエストミンスターに輸送され、今もオークランド墓地で静かに眠っています。

バーバーのエピソードを紹介

バーバーのエピソードを紹介します。作曲家、演奏家としてだけではなく、声楽家としてもその才能を発揮していました。

声楽家としても活躍

幼少期からピアノや作曲に才能を発揮したバーバーは、その一方で優れたバリトン歌手という才能も持ち合わせていました。その実力はというと、声楽家兼作曲家として四重奏団と演奏旅行するほどで、のちにバーバーの歌声を録音したレコードも販売されています。バーバーの作品は、その過半数が歌曲を占めていることから考えると、歌に対して一段と思い入れがあったのかもしれません。

几帳面な性格とラフマニノフ

バーバーはベートーヴェンやモーツァルトなどの古典主義に比べ、バロック音楽やスクリャービン、ラフマニノフといったロマン主義に傾倒していました。また、自宅で作曲に取り掛かる際には、バッハの『平均律クラヴィア曲』を演奏してから作曲するのが常だったそうです。バーバーの几帳面な性格がうかがえるエピソードですね。

ラフマニノフに対しては、もはや「ファン」の一人だったようで、ラフマニノフが実際に使用していたピアノを自宅に所持していたことでも知られています。

トスカニーニによる催促

バーバーが国際的な知名度を獲得するなかで、大指揮者トスカニーニの存在を無視する事はできません。バーバーの代表作『弦楽のためのアダージョ』の初演を指揮したのはトスカニーニですし、新作(『管弦楽のためのエッセイ1番』)を作曲するよう催促したのもトスカニーニでした。

1938年に発表された2つの作品は結果的に大成功を収め、バーバーの知名度を世界的なものへと躍進させました。バーバーの成功の影には、常にトスカニーニの存在があったのですね。

まとめ

バーバーの生涯を簡単に解説しました。バーバーは1981年まで存命だったため、その生涯や作品についての研究が少ないのが現状です。しかし、これから徐々にその功績や人生が明らかになってくるのではと筆者は期待しています。この記事を通して、読者の方にバーバーという作曲家を知っていただき、作品にも興味をもっていただけたら幸いです。

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