セルゲイ・プロコフィエフってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]プロコフィエフ: 交響曲全集

20世紀を代表するロシアの音楽家、セルゲイ・プロコフィエフ。作曲家としてだけではなく、ピアニスト、指揮者、脚本家としても活躍した彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。2度の戦争を経験し、晩年には祖国ソビエトから作品の演奏が禁じられるなど、波乱の多い生涯だったようです。そこで今回は、激動の20世紀を駆け抜けたプロコフィエフの生涯をご紹介します。

プロコフィエフの生涯

セルゲイ・プロコフィエフ(以下プロコフィエフ)は、20世紀半ばまで活躍したロシアの作曲家です。61歳で亡くなったので比較的短い生涯でしたが、その人生は浮き沈みの多いものでした。

幼少期から音楽院卒業まで

プロコフィエフは、1891年ロシアのエカテリノスラフ県(現ウクライナ東部)に生まれました。父は農業技術者、母は農奴出身でした。母が音楽を学んでいた影響もあったのか、プロコフィエフは幼少の頃より天才的な才能を発揮します。5歳の頃にはすでに作曲を始め、その後オペラに興味をもったプロコフィエフは、わずか9歳にして「巨人」というタイトルの12ページにおよぶ家族用オペラを作曲しました。オペラの作曲は、プロコフィエフにとってライフワークとなります。

その後、作曲家グラズノフの薦めもあり、プロコフィエフはサンクトペテルブルグ音楽院を受験。非凡な才能を持っていたプロコフィエフは、わずか13歳という若さで入学を許可されました。18歳で作曲科を修了し、ピアノと指揮の勉強のため23歳まで同音楽院で学ぶことになります。教師の中には「熊蜂の飛行」で有名なリムスキー・コルサコフがおり、管弦楽法を学びました。ピアノの腕前も一流だったプロコフィエフは、卒業試験でもその能力を発揮し、ルビンシュタイン賞を受賞するほどでした。

ロシア革命以降

音楽院在籍中に父を亡くし、プロコフィエフは一時的に経済的不安に陥ります。しかしすでにピアニスト、作曲家としての名声を得ていたのが幸いし、作曲や演奏活動を行うことで生計を立てていました。20代でロシア革命を経験するなど、時代の情勢は激しいものとなりましたが、それに同調するかのようにプロコフィエフの音楽活動も活発なものとなりました。

その大きな要因が、芸術プロデューサーであり、ロシア・バレエ団を設立したことで知られるセルゲイ・ディアギレフとの出会いです。このディアギレフとの出会いがきっかけとなり作曲されたのが、バレエ「道化師」や「鋼鉄の歩み」です。

また1918年には、ロシア革命から逃れるためにアメリカへ渡る途中で日本に滞在していたことも忘れてはならない事実です。5月から8月までのおよそ3ヶ月間、京都の祇園や奈良、横浜や東京を訪れ、横浜ではリサイタルも開かれました。奈良に滞在中に構想していた「白鍵弦楽四重奏」は、のちのピアノ協奏曲3番の原曲とも言われています。日本をあとにしたプロコフィエフは活躍の場をアメリカ、ドイツ、フランスへと移します。

祖国ソビエトに帰国

パリに滞在していたプロコフィエフは、1936年モスクワへ戻ることを決意します。ソビエトに戻った後も精力的に作曲活動を行い、代表作「ペーターと狼」や戦争ソナタとも言われるピアノソナタ6・7・8番を作曲したのもこの頃です。

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この時期のプロコフィエフは映画音楽の作曲も手がけており、エイゼンシュタイン監督の「アレクサンドル・ネフスキー」はその代表作とされています。のちにプロコフィエフは、映画音楽からカンタータ用の管弦楽へと編曲し、大変な成功を収めています。エイゼンシュタイン監督とはその後も関係が続き、映画「イヴァン雷帝」の音楽もプロコフィエフが担当することになりました。

第二次世界大戦中にも、トルストイ原作の「戦争と平和」をもとにしたオペラや、戦禍を逃れるために疎開したコーカサスでは「弦楽四重奏曲第二番」、バレエ「シンデレラ」の作曲など、音楽への情熱は衰えることがありませんでした。

晩年

第二次世界大戦終了後、プロコフィエフはソビエト政治局から「古典音楽の基本原理の放棄」を理由に、批判されることになります(ジダーノフ批判)。ショスタコーヴィチやハチャトゥリアンなども、同様な非難を受けており、ピアノソナタ6番や8番など数曲が演奏禁止にされてしまいました。

その後もオペラ作品の発表を試みるもことごとく拒否され、循環器系の持病も悪化したことも相まって、少しずつ芸術の表舞台から姿を消すようになりました。1949年には、作曲の時間を1日1時間のみに制限されるなど、かなり容態が悪化していたようです。

それでもプロコフィエフは作曲活動を止めることはなく、次の時代を担う若い演奏家のために「チェロソナタ」や、亡くなる前年には「交響曲第7番」といった大作を作曲しました。

死因は?

プロコフィエフは1953年3月5日、脳内出血のため61歳でこの世を去りました。奇しくもこの日は、スターリンが亡くなった日と同日であったため大きくは取り上げられず、友人たちに見守られながら静かに葬儀が行われたそうです。ショスタコーヴィチも葬儀の参列に加わりました。

エピソードや性格は?

子供の頃から類い稀な音楽の才能を発揮したプロコフィエフ。その才能に驚愕したリムスキー・コルサコフは、13歳で音楽院に入学したプロコフィエフに対して「この子こそ、心から願っていた生徒だ」と喜んだというエピソードが残っています。大作曲家をも唸らせる天才だったことがわかるエピソードです。

また、晩年には仲違いが解消したものの、ショスタコーヴィチとは何かと相性が悪かったらしく、意見の食い違いによって殴り合いの喧嘩になりそうな場面もあったそうです。作品から理知的な印象を受けますが、好き嫌いのはっきりした人物だったことが想像できます。

まとめ

今回は、プロコフィエフの生涯についてご紹介しました。幼少の頃より天才的な才能を発揮し、20世紀のクラシック音楽界に衝撃をもたらしたプロコフィエフ。その作品の多くが、今も聴衆の心を魅了し続けています。現代音楽は難しいと思っている方も、一度プロコフィエフの作品を聞いてみてください。その斬新なメロディーと音楽的展開に、きっと驚かされると思いますよ。

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