アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(以下ハチャトゥリアン)という作曲家をご存知ですか?・ハチャトゥリアンは、グルジア(現ジョージア)に生まれ、ソビエト社会主義の時代を生きた20世紀を代表する作曲家です。ハチャトゥリアンの作品のなかでもとりわけ「剣の舞」が有名で、誰しも一度ならずとも聞いたことがあると思います。
また、彼が作曲した「ワルツ」はあらゆるワルツの中でも屈指の名作とされています。そんな有名曲を作曲したハチャトゥリアンとはどのような人物だったのか、その生涯をご紹介します。
ハチャトゥリアンの生涯
ハチャトゥリアンは1903年グルジア(現在のジョージア)の首都トビリシにて5人兄弟の末っ子として生まれました。グルジアに生まれましたが、両親ともにアルメニア人であったため、ハチャトゥリアンは生涯アルメニア人としてのアイデンティティを貫き通します。姉がいたそうですが、生後2年で他界してしまったそうです。
父エギア・ハチャトゥリアンは貧しい農家の家庭に生まれましたが、トビリシで製本業の修行をし、のちに製本業のオーナーとなりました。
ハチャトゥリアンは他の作曲家のように、幼少期から音楽の教育を受けていたわけではなく、本格的に音楽の勉強を始めたのは18歳になってからでした。それまでは楽譜も読めなかったと言われています。
19歳でグネーシン音楽学校に入学すると、チェロと作曲を学び始めます。グネーシン音楽学校は数々の有名音楽家を輩出している名門校で、ピアニストのエフゲー二・キーシンもこの学校の卒業生です。
1929年からはモスクワ音楽院に在籍し、ミャスコフスキーやワシレンコに作曲や管弦楽法を学びました。師であったミャスコフスキーは、ベートーヴェン以降の作曲家として27曲の交響曲を作曲し、「第9の悲劇」を平然と乗り越えたとても興味深い人物です。
ハチャトゥリアンがモスクワ音楽院在籍中に作曲したピアノ曲「トッカータ」には、すでにアルメニアの民族音楽が垣間見られ、早い時期から民族音楽と西洋音楽の融合を模索していた形跡をうかがい知ることができます。
1934年にミャスコフスキーの娘ニーナ結婚し、生涯をともにすることになりました。ニーナとの結婚から2年後、ハチャトゥリアンは「ピアノ協奏曲」を発表し、クラシック音楽界で注目を集めるようになります。
その後は順調に音楽家としてのキャリアを重ね、「交響曲第二番」「ヴァイオリン協奏曲
「ガイーヌ」など数々の名作を発表し、音楽家としての名声をよりいっそう高めていきます。
順調にキャリアを重ねたかに見えたハチャトゥリアンでしたが、ある時期ピンチが訪れます。1948年になると、スターリンの文化政策の目が厳しくなり、その矛先がハチャトゥリアンにも向けられてしまったのです。当時のソビエトの芸術的指針とは「形式において民族的。内容において社会主義的」でなければならず、ハチャトゥリアンの作風はその精神に反するものとみなされてしまいます。
これはいわゆる「ジダーノフ批判」と呼ばれ、ソビエト連邦による前衛芸術の取り締まりを強化したものです。ジダーノフとはソビエト中央委員会書記であったアンドレイ・ジダーノフという人物の名前で、この監視は1948年から1958年の10年あまり続きました。
プロコフィエフやカバレフスキー、ショスタコーヴィチなどもジダーノフ批判の槍玉にあげられ、作品の上演禁止や、ソビエト当局の意向に沿った作品を半ば強要されていました。
しかしスターリンの死後は少しずつ監視の目から解放されるようになり、1956年にグネーシン音楽学校とモスクワ音楽院で教授に就任し、後進の教育に勤め始めます。1960年代になると、日本へ来日し読売交響楽団との共演も果たしています。「子供のためのアルバム」や「無伴奏チェロのための幻想ソナタ」など亡くなる2年前まで作曲活動に励み、1978年5月1日、74歳でこの世を去りました。
性格やエピソードは?
ハチャトゥリアンはアルメニア人であることに生涯誇りを持っていました。その傾向は作曲を学び始めた頃から現れており、ガイーヌやスパルタクスといった後期の作品に至るまで貫かれています。そういった点から考えると、ハチャトゥリアンはジョージア生まれであったものの、アルメニア人としてのアイデンティティを保ち続けた愛国者であったことが想像できます。
音楽を学び始めたのは遅かったハチャトゥリアンですが、もっとも有名な「剣の舞」を一晩で書き上げたという伝説が残っていることから、ハチャトゥリアンは紛れもなく20世紀を代表する天才作曲家の1人といえるでしょう。
死因は?
いろいろと調べてみましたが、詳しい死因はわかりませんでした。亡くなる数年前から病気を患っていたようで、おそらくその病気が原因だと考えられます。ハチャトゥリアンはアルメニアにあるコミタス・パンテオンに静かに眠っています。
まとめ
今回はハチャトゥリアンの生涯をご紹介しました。世界的名声を得たハチャトゥリアンでしたが、一時期はジダーノフ批判の対象となるなど危険な時期もあったようです。
しかしスターリンの死後は自分の好きな作品を発表できるようになり、ハチャトゥリアンのルーツである、アルメニアの民族性を反映させた作品を多く発表しました。
ハチャトゥリアンの作品は力強く、大迫力の作品が多いので、聞く人を飽きさせません。雄大なアルメニアの大地を思わせるハチャトゥリアンの作品に、ぜひ触れてみてください。
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