セザール・フランクってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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セザール・フランクという作曲家をご存知ですか?フランクはベルギーのリエージュに生まれ、その後フランスで活躍した19世紀を代表する作曲家です。存命中はおもに教会オルガニスト・教育者として活動し、フランス音楽の発展に寄与しました。またサン=サーンスやガブリエル・フォーレなどとフランス国民音楽協会を設立。後進の作曲家たちの育成にも尽力しています。フランクの死後、作品の多くが見直され、現在では「フランス近代音楽の父」と称されるフランクの人生はどのようなものだったのでしょうか。今回はフランクの生涯について解説します。

フランクの生涯について

セザール・フランクの生涯について紹介します。存命中は作曲家というよりも、オルガニストや教育者として評価されていたようです。

神童フランク

セザール・フランクは、1822年、現ベルギー(当時はネーデルラント連合王国)のリエージュに生まれました。銀行家だった父ジョセフは、お金に対して強欲な一面があったようで、音楽の才能に恵まれたフランクに対して、フランツ・リストのような人気音楽家になるのを望んだそうです

幼少期から卓越した才能を発揮したフランクは、父の意向によりリエージュ音楽院に入学。音楽院ではソルフェージュやピアノ、オルガンなどを学んでいます。そして1834年、わずか11歳でコンサートデビューしたフランクは、その後フランス国籍を取得しパリ音楽院へ進学。パリ音楽院で引き続きピアノやオルガンを学び、めきめきと頭角を現しました。また、パリ音楽院ではオルガン指導者として高名なフランソワ・ブノワに師事し、オルガン演奏の才能も開花させます(ブノワはサン=サーンスのオルガンの師でもあります)。

1842年、パリ音楽院を自主退学し祖国ベルギーに帰国したフランクですが、ベルギーでの演奏活動が思わしいものでなく、パリ音楽院復学し「ピアノ3重奏曲」など初期の傑作を生み出します。

教会オルガニストとして

パリ音楽院修了後のフランクは経済的に苦しい時期もありながら、教会オルガニストと音楽教師として生計を立て始めます。1847年、ノートル=ダム=ド=ロレット教会のオルガニスト補佐となったフランクは、ここからオルガニストとしての道を歩み始め、徐々に重要な役職を歴任します。

1851年にはフランソワゾー=マレ教会の第一オルガニストという地位に就き、オルガニストとして大きな評判を得ています(マレ教会に備え付けられていたカヴァイエ・コル作の教会オルガンに大きな感銘を受けたフランクは、「私のオルガンはまるでオーケストラのようだ!」と絶賛しました)。

そして1858年、サント・クロチルド教会の正オルガニストに就任したフランクは、生涯にわたりこの役職を継続しています。そしてオルガニストとして着実に名声を高めたフランクは、1873年、フランソワ・ブノワの後任としてパリ音楽院のオルガン科で教鞭を取り始めました。ヴァンサン・ダイクやエルネスト・ショーソンといった優れた弟子たちに囲まれたフランクは、「父なるフランク」の愛称で親しまれ、学生たちの精神的支柱として教育に尽力します。

教会オルガニスト兼音楽院教授という多忙な時期を過ごしたフランクですが、晩年になるにつれ「ピアノ5重奏曲」(1879年)や交響詩「鬼神(ジン)」(1883年〜1884年)、「ヴァイオリンソナタ」(1886年)などの傑作を次々と発表します。また、1885年にはフランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を受賞し、フランクはフランスを代表する作曲家の一人として高い評価を得ました。

突然の事故、晩年

晩年においても精力的に制作活動を続けたフランクでしたが、1890年7月、フランクが乗っていた辻馬車と馬引きの列車が衝突事故を起こしたことをきっかけに、急速に体調を崩し出します。事故による後遺症はなかったものの、日に日に体が衰え、次第に歩行困難に陥ったフランク。この影響でリハーサルや演奏会のキャンセルも度重なり、音楽院での講義もままならなくなりました。

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休暇を余儀なくされたフランクは、それでも作曲を続け、オルガン作品における最高傑作の一つ「3つのコラール」を作曲。徐々に回復の兆しを見せ、休暇明けの10月から音楽院に復帰し教鞭を取るも、同月に風邪をこじらせ胸膜炎(肋膜炎とも)を発症し、帰らぬ人となりました。享年67歳。葬儀はフランクが長年勤めたサント・クロチルド教会で執り行われ、サン=サーンスやフォーレなど、生前ゆかりのある音楽家たちが多数参列しています。フランクの死後、弟子たちはオーギュスト・ロダンに胸像の作成を依頼し、その胸像は現在もフランクの墓の脇に掲げられています。

フランクのエピソードは?

フランクのエピソードについて紹介します。フランクは純粋に音楽を愛し、音楽に人生を捧げた人物だったようです。

抑圧的な両親と決別する

フランクの天才的才能に目をつけ、金儲けを画策していた父ジョセフ。そんなジョセフは威圧的な態度で我が子に接し、フランクを追い詰めます。ある日フランクがフェリシテ=カロリーヌ・セイヨと恋仲になると、ジョセフはフランクの書類の中から「喜ばしい記憶の中のF・デムソー嬢へ」と献辞が添えられた作品を見つけ、あろうことかフランクの目の前で楽譜を破り捨ててしまいます。

この事件がきっかけとなり、フランクは荷物をまとめ家を後にし、カロリーヌのもとへ向かい、2度とフランク家に戻ることはなかったそうです。温厚なフランクもさすがに父の横暴には耐えられなかったのでしょうね。

サント・クロチルド教会のオルガンを心から愛する

若かりし頃は経済的に苦しんだフランク。しかし次第にオルガンの実力が認められ、後にサント・クロチルド教会の第一オルガニストに就任します。やがてフランクのオルガンの腕前は評判となり、「フランクのオルガン目当て」に教会を訪れる人も大勢いたそうです。

そんなフランクですが、サント・クロチルド教会に置かれていたカヴァイエ・コル製の3段オルガンを弾きこなすために、練習用の足鍵盤を購入し自宅で猛練習を重ねたと言われています。幼い頃から神童と称されたフランクも、陰ながら努力していたようです。

批判を気にしない大らかな性格

フランクは生涯で1作の(若い頃にも書いたらしいですが)交響曲を発表しました。現在ではフランクのみならず、19世紀のフランス交響曲を象徴する作品として位置付けられていますが、発表当時は評価されませんでした。とりわけ、初演を聴いたグノーは「不毛であり、陰気、また魅力や愛嬌すらない」と述べ、手厳しい評価を下しています。

しかしそんな評価に対して、フランクはまったく気にする様子もなく、「(初演は)自分の想像していた通りの音が響いた」と満足げだったそうです。地位や評判にこだわらない、純粋に音楽を愛するフランクの人物像がわかるエピソードですね。

まとめ

フランクの生涯やエピソードについて紹介しました。オルガニスト・教育者として生きたフランクは、教育者らしく、穏やかで誠実、模範となる人物だったようです。多忙だったこともあり、決して作品数が多い作曲家ではありませんが、フランクが近代フランス音楽の礎を築いたことは間違いないでしょう。交響曲やオラトリオ、ピアノ曲から交響詩まで、幅広いジャンルの作品を残していますので、この記事で興味を持った方は、ぜひフランクの作品を聴いてみてください。

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