ダリウス・ミヨーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Milhaud: Une Vie Heureuse

ダリウス・ミヨーという作曲をご存知ですか?。ダリウス・ミヨー(以下ミヨー)は1892年、南フランスのプロヴァンスに生まれ、20世紀に一世を風靡したフランスを代表する作曲家です。18歳で初めて作品を発表して以来、亡くなる前年まで音楽家として活動し、生涯で440曲以上もの膨大な作品を残しました。またミヨーは、同世代の作曲家アルテュール・オネゲルやフランシス・プーランクらと「フランス6人組」を結成し、フランス音楽界に新風を巻き起こしたことでも知られています。そんなダリウス・ミヨーとはどのような人物だったのでしょうか。今回はダリウス・ミヨーの生涯やエピソードについて解説します。

ダリウス・ミヨーの生涯について

ミヨーの生涯について紹介します。裕福な家庭に育ち、何ひとつ不自由のない生涯を送ったかと思われるミヨーですが、生まれつき小児麻痺を患い、車椅子生活を余儀なくされることも少なくありませんでした。

パリ音楽院時代

ダリウス・ミヨーは1892年、南フランスのプロヴァンス地方に生まれました。ミヨーの父はアーモンド輸入業で財を成した人物であり、裕福な家庭で育ったミヨーは、7歳からヴァイオリンの手引きを受けるなど、恵まれた少年時代を過ごしています。7歳というと、音楽家のキャリアとしては少し遅いように感じますが、天性の才能を発揮したミヨーは、わずか12歳にしてブルギエ四重奏団の第2ヴァイオリンに任命されるなど、徐々に周囲からその才能が認められ始めます。

そして1909年、16歳でパリ音楽院に入学したミヨーは、当時のクラシック界を席巻していたドビュッシーやラヴェル、ムソルグスキーといった作曲家に傾倒し、自身もヴァイオリニストから作曲家の道を志すようになります。またこの時代の音楽界では、大きく分けてワーグナー派かブラームス派という2大派閥が問題となっており、ミヨーは反ワーグナーの立場をとっていたそうです。

パリ音楽院時代は作曲をポール・デュカスに、和声をザビエル・ルルーに師事し、この時期に後の「フランス6人組」のメンバーとなる、アルテュール・オネゲルやジョルジュ・オーリックらと交流が始まりました。

また音楽を学ぶ一方で、ミヨーはフランスの詩人ポール・クローデルと親交を深め、以降生涯にわたり友情を深めて行くことになります。

外交官秘書として世界中を巡る

パリ音楽院修了後、ポール・クローデルの誘いで外交官秘書となったミヨーは、クローデルに付き添い、1917年2月から1918年末までブラジルに滞在します。そして滞在中に聴いたブラジル民族音楽に強い衝撃を受けたミヨーは、その影響により「男とその欲望」や「ブラジルへの郷愁」、「屋根の上の牛」といった作品を発表し、大きな話題となりました。

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ミヨーがブラジル滞在中、祖国フランスではバレエ・リュスにより上演されたバレエ「パラード」が一大スキャンダルを巻き起こし、作曲者のエリック・サティのもとに続々と若手作曲家が集まり始めていました。やがてブラジルから帰国したミヨーもこの一員に加わり、アンリ・コレが書いた記事「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」が新聞で掲載されたことをきっかけに、ミヨーは「フランス6人組」のメンバーとして広く認知されるようになります。
また、1920年代のミヨーは当時流行していた黒人音楽を研究し、自身の室内楽にその要素を取り入れるなど、新たな境地に到達します。とりわけハーレムで流れるジャズに感銘を
受けたミヨーは、積極的に「ジャズの文法」を吸収し作品に反映させています。なかでも、1923年に発表した「世界の創造」は成功を収め、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」に先んじてクラシックにジャズの文法を取り入れた作品として好評を博しました。

渡米から晩年まで

第2次世界大戦が始まりアメリカへ亡命したミヨーは、ミルズ・カレッジで作曲の教鞭をとる一方で、サンフランシスコ交響楽団やシカゴ交響楽団、ボストン交響楽団などの名だたるオーケストラで客員指揮者を務めるなど精力的に音楽活動を続けました。また、戦後はパリ音楽院の教授にも任命され、アメリカとフランスの両国で教鞭を取る生活を送っています。

1971年、アメリカのミルズ・カレッジを退いたミヨーはスイスのジュネーブに新たに移住し、亡くなる前年まで意欲的に作曲活動を続け、1974年6月22日、移住先のジュネーブにて81年の生涯に幕を閉じました。死因について調べてみましたが、詳しいことはわかりませんでした。

性格を物語るエピソードは?

ミヨーにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。ここでは代表的な2つのエピソードを紹介します。

酷評にもめげない前向きさ

ポール・クローデルと共に渡ったブラジルからの帰国後、ミヨーはブラジルで吸収した民族音楽を取り入れた「屋根の上の牛」や「交響曲第2番」を発表します。しかしどちらも好評とは言えず、評論家から「滑稽な作品を書く作曲家」と酷評されたり、ある時には聴衆の反発から警察が介入する事件にまで発展するなど、散々な結果となります。

しかしこうした評価に対しミヨーは「熱狂でなくても、強い抗議は作品によって刺激されている証拠」と述べ、落ち込むどころか、さらに自信を深めたそうです。このことから、ミヨーは自分の音楽に対して、確固たる信念を持っていたことが窺えます。

「パリ解放」の嬉しさから作品を作曲

第2次世界大戦中が勃発すると、ユダヤ人だったミヨーは難を逃れるためアメリカへ渡り、教師として新たな生活を送ります。やがて連合国軍が勝利し母国フランスが解放されたことを聞くと、ミヨーは感謝の意を込めてフランス各地の民謡を取り入れた吹奏楽曲「フランス組曲」に取り掛かり、その喜びを表現しました。遠い祖国を思うミヨーの愛国心が伝わるエピソードです。

まとめ

今回はダリウス・ミヨーの生涯について解説しました。なかなか一般には馴染みのない作曲家かもしれませんが、フランスを含む欧米において、ミヨーは20世紀を代表する作曲家として広く知られています。また作品数も膨大で、いわゆる「第9の悲劇」をあっさりと乗り越えている作曲家としても興味深い一面があります。これまで一度もミヨーの作品を聴いたことがない方は、この記事を機会に、ぜひその作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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