出典:[amazon]ショスタコーヴィチ:交響曲 第 4番
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(以下ショスタコーヴィチ)は、20世紀に生まれたソビエト(現ロシア)を代表する作曲家です。ショスタコーヴィチが生きた時代はまさに波乱に時代でした。ロシア革命や2つの世界大戦を経験し、ソビエトの社会主義体制とともに時代に翻弄されたショスタコーヴィチとはどのような作曲家だったのでしょうか。彼の音楽や人生は、現在でも研究が進められており、まだまだ秘密の多い人物のようです。今回は、ショスタコーヴィチの生涯についてご紹介します。
ショスタコーヴィチの生涯
20世紀最大の作曲家であり、あまりの天才さ故に「モーツァルトの再来」とまで称されたショスタコーヴィチとはどのような人物だったのでしょうか。シベリウスやプロコフィエフとともに、マーラー以来の最高の作曲家と位置付けられる彼の生涯を振り返ってみましょう。
幼少期から音楽院修了まで
ショスタコーヴィチは、1906年ロシア帝国のサンクトペテルブルグに生まれました。父は検査技師、母はペテルブルグ音楽院でピアノを学んだピアニストでした。姉と妹の3人兄弟で、子供の頃は犬や猫、小鳥など動物が大好きな少年だったそうです。
母の手ほどきで9歳からピアノを習い始めると、すぐに才能を発揮し、わずか13歳でペトログラード音楽院に入学します。17歳でピアノ科を修了し、その2年後には作曲科も修めてしまいます。15歳のときに父が他界し、ショスタコーヴィチ自身も結核になるなど一時的に経済的困難に直面しますが、ショスタコーヴィチの才能を高く評価していたグラズノフが奨学金の面倒をみることで難を逃れました。
その後、作曲科を卒業する際に卒業作品として作曲した「交響曲第一番」が国内で大反響を呼び、その評価はヨーロッパにまでとどろき、作曲家としてのデビューを果たします。
同大学院に進学したショスタコーヴィチはピアニストになるか作曲家になるかで迷いましたが、紆余曲折を経て作曲家の道に進むこととなりました。
作曲家人生のあゆみと大学教授時代
20代から30代のにかけて、ショスタコーヴィチはオペラや交響曲を多数作曲するなど創作活動が活発になります。1930年にオペラ「鼻」を、1934年には「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などを生み出し、大成功を収めました。
しかし「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は、当時のソビエトが掲げていた芸術表現形式から逸脱しているという理由でスターリンの逆鱗に触れてしまい(プラウダ批判)、ショスタコーヴィチは窮地に立たされてしまいます。
命にも関わりかねない状況から逃れるために、ショスタコーヴィチは伝統的形式に則った「交響曲第五番」(革命)」を作曲し大成功を収め、名誉の回復とともに事なきを得ました。この時期から、ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院やモスクワ音楽院で教授に任命され、作曲活動と教育活動に専念します。
やがて第2次世界大戦になると、ソビエトにおける芸術はますます政治色が強くなり、ショスタコーヴィチもその影響を逃れることはできませんでした。その状況の中で作曲された「交響曲第七番 レニングラード」は、今でこそ誰もが安心して聞ける名作ですが、当時のソビエトでは国威発揚(こくいはつよう)を目的として作曲されました。
ジダーノフ批判後と晩年
しばらく音楽院で教鞭をとっていたショスタコーヴィチでしたが、1948年、またもソビエトからの批判により、音楽院の教授職を解任に追い込まれてしまいます(ジダーノフ批判)。
当時のソビエトでは、当局の方針に従わない芸術家が粛清されることは珍しくありませんでした。またも危険に晒されることとなったショスタコーヴィチは、ソビエト当局を賛辞するためにオラトリオ「森の歌」を作曲し難を逃れます。
やがて戦争も終わり、さらにスターリンがこの世を去ると再び音楽院に復帰し、教授として音楽活動を再開することとなりました。1950年以降の晩年は、ソビエト当局からの監視が弱まったこともあり、それまで公表を控えていた「交響曲第四番」や「ヴァイオリン協奏曲一番」などを世間に出し、作曲活動も活発になっていきます。
十二音技法や、現代音楽的技法を思う存分作品に盛り込むことができるようになったショスタコーヴィチの作品は、ますます円熟味を帯びていくこととなりました。
死因について
50代に入ると、ショスタコーヴィチは小児麻痺の後遺症の影響で、右手の機能が失われるという悲劇に襲われます。それによってピアノを弾くことはおろか、作曲のペンも持つことさえできなくなりました。しかし作曲への情熱は衰えず、難局を乗り越えて数々の名作を生み出します。
その後60代になると2度の心筋梗塞によって倒れ、1975年9月25日、68歳でこの世を去りました。心筋梗塞は直接の原因ではなく、死因は肺がんでした。ショスタコーヴィチは亡くなる4日前まで「ヴィオラソナタ」の草稿を練っていましたが、作曲者本人はこの曲の演奏を聞くことはありませんでした。ヴィオラソナタはショスタコーヴィチの死後、遺作として発表されています。
エピソードや性格は?
若い頃、ピアニストになるか作曲家になるか迷っていたショスタコーヴィチ。ピアノの腕前も一流で、1927年に開催された第一回ショパンコンクールに参加しました。しかしコンクール当日に盲腸炎を発症し、上手く演奏できなかったというエピソードが残っています。
それが理由かはわかりませんが、一緒にソビエトから参加したオボーリンが見事優勝し、ショスタコーヴィチは特別賞に終わりました。この結果にショスタコーヴィチは相当ショックを受けたと伝えられています。
長い間ソビエト当局の監視下にありながら、作品を通じて懸命に生きたショスタコーヴィチは、まさに忍耐と不屈の精神の持ち主と言えるでしょう。ときには意にそぐわない作品を作ることを余儀なくされ、涙したという話が残っています。それでもなお、芸術活動に従事したショスタコーヴィチは、音楽への情熱が溢れた人物だったことがわかります。
まとめ
今回は、ショスタコーヴィチの生涯についてご紹介しました。ショスタコーヴィチは、当時のソビエト社会主義政治と折り合いをつけながら、ある意味では命懸けで作曲活動を続けました。もしショスタコーヴィチがラフマニノフのように欧米に亡命し、自由な作品を作曲できていたら、どのような作品が生まれたのかと想像してしまいます。彼の作品にはまだまだ謎めいたところがあり興味が尽きません。みなさんもショスタコーヴィチの作品に触れて、その面白さを味わってみてください。
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