出典:[amazon]Carmen Suites & L’Arlesienne Suites
ジョルジュ・ビゼーは1838年にフランスのパリで生まれました。ビゼーの代表作は?と聞かれてもすぐに出てこないかもしれませんが、現在でも大人気のオペラ「カルメン」や「アルルの女」の作曲者です。音楽室に飾ってある写真を見ると、あまり若そうには見えませんが、ビゼーは36歳という若さでこの世を去りました。早熟の天才で、ピアノの魔術師と言われたリストにもその実力を認められたビゼーとは、一体どのような人物だったのでしょうか。今回は、ビゼーの生涯をご紹介します。
ビゼーの生涯
今回はビゼーの生涯を5つに分けてご紹介します。ビゼーは短命ではありましたが、その才能は早くから開花していたようです。それでは順を追ってみてみましょう。
幼少期からパリ音楽院時代初期
ビゼーは1838年10月25日、フランスのパリで生まれました。父は声楽教師、母はピアニストという恵まれた環境で育ち、ビゼー自身も早くから音楽の才能開花させ、わずか9歳でパリ音楽院に入学するという天才でした。パリ音楽院では、高名な音楽家であるマルモンテルからピアノを学び、オルガンや作曲、フーガを学びました。ビゼーの才能はこれら全ての分野で発揮され、多くの賞を受賞したそうです。そして作曲に関しては「フランス近代歌曲の父」と言われるグノーから大きな影響を受けました。
パリ音楽院時代
1857年、若手作曲家の登竜門とされるローマ賞に応募し、19歳という若さでグランプリを獲得しました。実はその前年も「ダビデ」というカンタータ曲でグランプリを獲得しましたが、「年齢が若すぎる」という理由で2位となってしまったそうです。
同年、オッフェンバックの劇場が主催する懸賞オペレッタに応募し、ビゼーの作品が選ばれ、のちにパリで劇場公演されることとなりました。この公演により、ビゼーは作曲家としての人生を歩み始めました。
イタリア時代
ローマ賞を受賞後、ビゼーはおよそ3年間イタリア渡り、ローマのメディチ荘を拠点に活動しました。イタリア滞在時には、おもにロッシーニやドニゼッティのオペラをよく聞いていたようで、1860年にパリに帰国するまで、コミック・オペラ「ドン・プロコピオ」や交響的オード「ヴァスコ・ダ・ガマ」など精力的に作曲活動を行いました。
パリ時代
3年間を予定していたイタリア留学でしたが、母が重篤な病に冒されているのを知ったビゼーはパリへと戻ります。パリへ戻ったビゼーは、生活のためにオペラの作曲、コンサート指揮者、リハーサルピアニスト、作品の編曲など音楽に関わるあらゆることをしたそうです。パリに戻ったビゼーでしたが、翌年に母を亡くし、2年後には師匠のアレヴィが他界するなど、辛い時期が続きました。
しかしその後、劇場支配人のレオン・カルヴァロから依頼を受け、オペラ「真珠採り」を作曲。聴衆から大人気となりました。評論家からの評価は良いものではありませんでしたが、唯一、作曲家のベルリオーズだけはこのオペラを高く評価したと言われています。
晩年
晩年になって、ようやくビゼーの作品が評価され始めます。1872年、ビゼーは「アルルの女」を発表しました。発表した当初は聴衆や評論家から良い評価を得られず落胆したビゼーでしたが、すぐさま組曲として編曲すると、高い評価を得て「アルルの女」の人気が定着しました。「アルルの女組曲」は今でも人気のある作品です。
「アルルの女」から3年後の1875年3月3日、ビゼーはもう一つの代表作「カルメン」を発表します。今でこそ、「カルメン」はオペラの中でも5本の指に入るほどの人気作品ですが、初演当初はこちらも不人気だったそうです。
カルメン初演からちょうど3ヶ月後の6月3日、ビゼーは36歳という若さでこの世を去りました。
性格は?
ビゼーは溢れる才能に恵まれながらも、生前はそれほど好評を得た作曲家ではなかったと言えます。それどころか、近しい家族の多くを早くに亡くし、不遇ともいえる人生だったかもしれません。しかしビゼーは、音楽を諦めることはしませんでした。ビゼーは生きるために音楽を続けた、不屈の精神の持ち主であったのかもしれません。
リストとのエピソード
ビゼーとリストとの間には、次のようなエピソードが残っています。
リスト主催の小さな音楽会に、当時22歳だったビゼーと先生のアレヴィが招かれました。
そのときリストは、自身の新曲の一部を披露し「この曲を正しいテンポで弾けるのはハンス・フォン・ビューローと私だけだろう」と言ったそうです。アレヴィがビゼーに「さっきの曲は覚えているか?」と聞くと、ビゼーは頷き、ピアノの前に座りリストの新曲を完璧に再現してみせました。驚いたリストが楽譜を渡すと、初見で見事にリストの新作を弾きこなしたそうです。
ピアノの魔術師と言われたリストに技術が認められるほど、ビゼーはすぐれたピアノ演奏者だったことがわかるエピソードです。
死因は?
1875年、ビゼー自身が「傑作」と称したカルメンの初演後に持病の扁桃腺炎が悪化。加えてリウマチや喉の痛みを訴え、安静のために移住しましたが、セーヌ川での水浴後に心臓疾患に罹(かか)り、36歳という若さでこの世を去りました。生前はあまり好評とは言えなかったカルメンですが、ビゼーの死後、その人気はヨーロッパで少しずつ高まりました。
まとめ
今回はビゼーについてご紹介しました。「カルメン」や「アルルの女」ばかりが有名ですが、ビゼーの才能は幼少の頃から素晴らしいものであったことがお分かりいただけたと思います。天才でありながら、その人生は必ずしも成功したとはいえないかもしれません。ですがビゼーの音楽には、聞く人の心を動かす躍動感がありありと感じられます。ぜひ、「カルメン」や「アルルの女組曲」を聞いてみてはいかがでしょうか。
コメントを残す