ミハイル・グリンカってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Mikhail Glinka: Songs and Romances

ミハイル・イヴァノヴィチ・グリンカ(1804-1857)は、ロシアの作曲家です。ムソルグスキーやリムスキー=コルサコフなどに多大な影響を与えた人物で、「ロシア国民楽派」の祖としても知られる人です。
今回は、グリンカの生涯、エピソードなどについてご紹介します。

グリンカの生涯

グリンカは地主の父を持つ、比較的裕福な家庭に生まれました。親族には音楽に携わる人もおり、幼少期から音楽に慣れ親しんで育ちました。

音楽と共に育った幼少期

グリンカは、1804年にロシアスモレンスク県のノヴォスパススコエで生まれました。
父は地主で、叔父の一人は音楽家として活動しており、農奴で作った小編成の吹奏楽団を有していました。
グリンカの家の催事には必ずこの楽団がやってきて演奏していたといいます。
また、叔父は晩餐の時にロシア民謡を編曲してよく演奏していました。
ロシアの民俗音楽、ロシアのメロディに慣れ親しんで育ったことは、後のグリンカの作風に大きな影響を及ぼしました。

ペテルブルグで音楽を学ぶ

グリンカは13歳になる年にペテルブルグに送られます。そこで名門の弟子のための寄宿学校に入り、音楽を学びました。
地主の父を持つグリンカは比較的裕福だったので、ピアノの他にヴァイオリン、声楽、作曲など、様々な分野を学ぶことができました。
アイルランド人作曲家でピアニストのジョン・フィールドのピアノレッスンを3回受けたのち、カール・マイアーにピアノを師事、ヴァイオリンをジョゼフ・ベームに師事しました。

グリンカは6年をこの寄宿学校で過ごし、1822年に無事卒業しています。
同年には既にピアノ曲をいくつか手掛けていますが、いずれも実験的な曲が多く、後に作曲者自らの手で改作しています。

卒業後は、故郷に帰り、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ケルビーニらの古典派音楽について勉強しました。

1824年には、父親の意向で運輸省に就職しますが、作曲活動は続けていました。
また、この頃からモスクワの社交界、サロンに顔を出すようになり、自由主義的文学者グループメンバー(ジュコフスキー、グリボエードフ、プーシキンら)と親交を持つようになります。しかし、翌年に起きたデカブリフトの乱以降は、交友関係からグリンカ自身も同調者なのではないかと見張られ、実際に取り調べも受けました。

作曲家としての成長

1828年に運輸省を退職したグリンカは、転地療養を兼ねてイタリアへと旅立ちます。
イタリアでは、ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」、ベッリーニの「夢遊病の女」を作曲者本人による指揮での初演を聴き、後にドニゼッティとベッリーニとも親睦を深めます。
更に、メンデルスゾーンやベルリオーズなどの大作曲家とも知り合い、音楽界でのコネクションをどんどん得ました。
こうした作曲家の影響も受け、グリンカがイタリアにいた3年の間に書いた曲には明るいカンティーナ様式の音楽が随所に散りばめられています。

しかし、グリンカはイタリアロマン派の音楽になってしまった自身の作品に納得がいかず、当時理論家で知られていたジークフリート・デーンを訪ね、彼のもとで和声法、対位法を基礎から徹底的に学びなおします。
これによってグリンカは音楽芸術の正しい概念を身に着け、自分が進むべき方向性もしかと見据えることができるようになったそうです。

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ロシアの民俗音楽とクラシック音楽の融合

自分の作品の進むべき道が見えたグリンカは、ロシアの民謡などをベースに、ロシア音楽とクラシック音楽の融合に果敢に挑戦しました。
ロシアオペラの「イヴァン・スサニン」が作られたのも丁度この頃で、1836年に初演された際には国民オペラとして大成功をおさめ、グリンカも宮廷礼拝堂の合唱長に任ぜられるなど地位を高めていきました。
しかし、ロシアオペラ第二弾の「ルスランとリュドミラ」は意外にも不評が上がり、グリンカは失意のまま西ヨーロッパへと旅立ちます。西ヨーロッパでは「ルスランとリュドミラ」は人気が高く、ベルリオーズの助太刀もあり、各地で抜粋講演が行われるなど、どんどん知られるようになりました。
グリンカは更に管弦楽の作曲にも熱心に取り組むようになり、ロシアのメロディを管弦楽でいかに表現するか、その手法を打ち立てることに成功しました。この手法は後の「ロシア五人組」やスクリャービン、プロコフィエフなどに継承されていきます。

晩年


晩年にはクリミア戦争が巻き起こるなど、グリンカの周りは決して穏やかなものではありませんでした。グリンカ自身はより愛国心に燃え、ロシア的な音楽の創造に全身全霊を込めていましたが、体調は悪くなる一方で、結局大曲は完成させるに至らずに終わります。

代わりに宮廷礼拝堂から依頼される宗教曲の作曲に取り組んでいたグリンカは、再び西ヨーロッパに出向き旧師であるデーンのもとで教会音楽の勉強を始めます。しかし、体調が悪化し、教会音楽の勉強を始めてわずか一年も経たずにこの世を去ってしまいました。

勉強熱心なグリンカ

グリンカは大変真面目な性格の人物だったようです。
幼少期からピアノ、ヴァイオリン、作曲、声楽などを黙々と学び、学校を卒業後も古典派音楽を独学で学んでいます。イタリアに療養に行った際には、イタリアの音楽院の院長に頼み込んでイタリア音楽を教わっています。色々な音楽を学びすぎて自分の音楽を見失ったグリンカは、単身ベルリンに飛んで理論家のデーンに和声法と対位法をわざわざ教えてもらいます。そして自分の作曲をようやく始めるわけですが、これだけ見ても、十分勉強熱心なのが伝わってきます。
さらに、自分に足りないと思うものは随時学んで吸収し、必要とあらば各国の民俗音楽の収集に自ら出向き、研究に時間を費やしました。
晩年、身体はボロボロでも再びデーン師を訪れ、教会音楽の勉強に励んでおり、最後の最後まで勉強家であったことがうかがえます。

多くの作曲家は学ぶよりも作曲に時間を費やします。その点でグリンカはちょっとユニークな作曲家といえるのではないでしょうか。

まとめ

グリンカは、あまり作品を残していない作曲家ですが、ロシアクラシックの基盤を作った超重要人物であることに変わりありません。

ロシア音楽の完成は、ロシア五人組以降といえるかもしれませんが、そのきっかけと土台を作ったのはグリンカに他なりません。

グリンカはいち早く西ヨーロッパのクラシック音楽を取り入れ、ロシア音楽をクラシック化させることに成功しています。

これまでグリンカはあまり聴いてこなかったという方、プロコフィエフやラフマニノフはよく聴くけどグリンカは聴いたことがないという方、ぜひグリンカの音楽を聴いてみてください。そしてグリンカ自身がこだわった民俗音楽のエスニックな部分を感じ取ってみてください。

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