アルテュール・オネゲルってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Honegger: le melodies (the songs)

アルテュール・オネゲルという作曲家をご存知ですか?もし一度でも聞いたことがある方は、かなりのクラシック音楽ファンかもしれません。アルチュール・オネゲルは19世紀末にスイスに生まれ、20世紀中期まで活動した、スイス及びフランスの作曲家です。スイスの名門チューリッヒ音楽院を修了したオネゲルは、その後パリ音楽院に進学し、ダリウス・ミヨーやジョルジュ・オーリックらと共に「フランス6人組」の一人として絶大な人気を博しました。そんな時代の寵児(ちょうじ)として活躍したアルテュール・オネゲルとはどのような人物だったのでしょうか。今回はアルテュール・オネゲルの生涯について解説します。

アルテュール・オネゲルの生涯について

オネゲルの生涯について解説します。オネゲルの人生について調べてみると、家庭にも恵まれ、概ね幸福な人生を送ったというのが筆者の印象です。

才能溢れる少年時代

アルテュール・オネゲル(以下オネゲル)は、1892年スイス人の両親の元、リ・アーブルに生まれました。観光地として知られるこの地は、画家クロード・モネが幼少時代を過ごし、ラウル・デュフィの生まれ故郷として現在も人気のある街です。

コーヒー輸入商社の支配人だった父は音楽愛好家であり、母もピアノが得意だったため、オネゲルは早くから音楽に触れ、サン=ミシェル教会のオルガン奏者ロベール・シャルル・マルタンといった優れた音楽家からヴァイオリンや和声などを学びます。少年時代のオネゲルはバッハを深く敬愛していたようで、この傾向は生涯に渡り続くことになります。

やがてチューリッヒ音楽院(現・チューリッヒ芸術大学)に進学したオネゲルは、2年に渡り作曲や音楽理論を学び、当時チューリッヒ音楽院院長を務めていたフリードリヒ・ヘーガーの勧めにより、作曲家になることを決意。1911年にパリ音楽院に進学し、7年間さらなる研鑽に努めました。またパリ音楽院ではダリウス・ミヨーと出会い、生涯の友人として親交を深めています。

フランス6人組の一員として活動

第1次世界大戦の勃発により一時期スイス軍に従軍したオネゲルでしたが、戦時中も作曲を続け、数ヶ月での除隊後はパリに拠点を移し生涯のほとんどをパリで過ごすようになります。

そしてパリに移住したオネゲルは、エリック・サティーの招きでジョルジュ・オーリックやルイ・デュレと共に「新しい若者」グループを結成。その後、ダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、ジェルメール・タイユフェール(唯一の女性)が加わり「フランス6人組」を結成するに至ります。

メンバーとしての活動は多くなかったものの、個別に作曲した作品を繋ぎ合わせた「6人組のアルバム」や、デュレを除いた5名による「エッフェル塔の花嫁花婿」といった作品を発表するなど、「フランス6人組」は世間から大きな注目を集めました。

「フランス6人組」に所属する一方、オネゲル個人が発表した「交響的断章(運動)第1番 パシフィック231」や「ダヴィデ王」、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」などの作品が大成功を収め、これによりその名声が高まるようになります。

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晩年

第2次世界大戦中のオネゲルは、パリのエコール・ノルマール音楽院(フランス唯一の私立音楽院)で教鞭を取る他、音楽評論や後進の指導者として意欲的に活動しています。また、1940年代後半では、作品の新たなインスピレーションのために、ドイツ、ベルギー、ポーランド、イタリアなどのヨーロッパ各地を巡り、1947年には自作の公演と指揮のためにアメリカを訪れました。

しかしアメリカ滞在中に血栓症を発症したことがきっかけで、療養生活を余儀なくされたオネゲルは、アメリカからの帰国後、ドイツやスイスなどで療養生活を送りながら可能な限り精力的に音楽活動を続けます。そしてこれらの功績が讃えられ、1948年、チューリッヒ大学より名誉博士号を授与され、1952年には芸術アカデミー会員に選出されるなど、名誉ある晩年を過ごしました。

その後1955年、医師の来診を待っていたオネゲルは、ベッドから起き上がろうとした際に意識を失い、そのまま妻の腕の中で亡くなりました。享年63歳。オネゲルが過ごしたモンマルトルの自宅は、妻の働きかけにより現在は博物館として一般公開されています。

アルテュール・オネゲルのエピソードについて

若くして名声を得たオネゲルには多くのエピソードが残されていますが、その中から特に親近感を覚えるエピソードを紹介します。

意外にも鉄道好きだった

スイスのチューリッヒ音楽院修了後、パリ音楽院で7年間過ごしたオネゲル。オネゲルは週に2〜3度、電車で数時間かけてパリ音楽院へ通っていました。そんな生活を繰り返す内に鉄道の魅力に引き込まれたオネゲルは、1923年、鉄道を題材した「交響的断片第1番 パシフィック231」という作品を残すまでになります。

さらにオネゲルは、自身の鉄道愛に関して次のように述べたことでも知られています。
「私は常に蒸気機関車を愛してきた。私にとって機関車は生き物なのであり、他人が女や馬を愛するように、私は蒸気機関車を愛するのだ」

天才作曲家は意外にも鉄道オタクだったことがわかるエピソードです。

強すぎるワーグナー愛

「フランス6人組」の基本コンセプトは「反ロマン主義」「反印象主義」ですが、オネゲルは他の5人とは違った感性を持っていました。ドイツ・ロマン主義やドビュッシーを敬愛し、なかでもリヒャルト・ワーグナーに心酔していたオネゲルは、ある日友人が「トリスタンとイゾルデ気に入らない」と言うと、「それではあなたは恋愛をした経験がないのか」と
すぐさま反論したそうです。

この言葉から、オネゲルのワーグナー愛が相当深かったことが伝わってきますね。

まとめ

いかがでしたか?今回はアルテュール・オネゲルの生涯について解説しました。オネゲルが残している言葉や思想などを調べてみると、「とても慎重で敬虔な人物」だったことが窺えます。オネゲルの作品に聖書や歴史上の伝説を題材にした作品が多いのは、彼自身の深い信仰心によるものかもしれません。クラシック音楽ファン以外の方にはあまり知られていない人物かもしれませんが、交響詩や室内楽など、優れた作品を多数残していますので、この記事を機会にぜひオネゲルの作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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