出典:[amazon]Puccini: Complete Opera Edition
クラシックに触れていると自然と耳にするような、有名なオペラの数々を作曲したプッチーニですが、その生涯について見てみると、オペラの作曲を始めてから評価されるまでの流れが、とても速かったということがわかります。
プッチーニは現在でもイタリアのオペラを代表する作曲家の1人ですが、作品自体は知っていても作曲家本人についてはあまり知らない、ということも多いのではないでしょうか。そこで、オペラで知られているプッチーニの生涯や性格などにも触れながら、詳しく掘り下げていきます。
プッチーニがオペラの作曲家になるまで

プッチーニはもともと、宗教音楽家の家系の生まれです。そのため、実はオペラ以外のジャンルの作品も作曲していました。また学生時代の様子からは、あまり勉強をしっかりやるような性格ではなかったと言われています。
オペラの作曲家を目指すまで
1858年にイタリアのルッカという所で生まれたプッチーニは、5歳で父親を亡くしてしまいますが、その後も教育を受けることはできていたようです。最初に就いた仕事は教会のオルガニストでしたが、ジュゼッペ・ヴェルディの代表作であるオペラ「アイーダ」に影響を受けると、オペラの作曲家を目指すようになります。
オペラの作曲コンクールからの転機
1880年から1883年にかけて、プッチーニはミラノ音楽院で勉強をすると、オペラの作曲コンクールへ自身の作品を出しました。賞を取ることはできなかったものの、後にその作品は舞台化されることとなり注目される機会を得ました。
有名な作曲家になってからのプッチーニ

2作目を完成させたプッチーニは、しばらくすると、自宅や仕事場として使用することになる別荘を購入しました。そして「マノン・レスコー」という作品で大成功を収めるのですが、この作品が後の代表作の数々を生み出すきっかけとなったそうです。
大成功の裏の苦労と晩年
「マノン・レスコー」がきっかけで、代表作「ラ・ボエーム」や「トスカ」、「蝶々夫人」などの台本を書いた、2人の台本作家と共に仕事をすることになったプッチーニですが、私生活では苦労をしていたようです。
手に入れた自動車では事故を起こしてしまい骨折、さらに家庭では浮気を疑われて「ドーリア・マンフレーディ事件」という有名な事件が起き、作曲にも影響があったそうです。
その後は代表作「西部の娘」や、三部作と呼ばれる「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の作曲が行われました。しかし、1923年になると喉頭ガンと診断をされてしまいます。そして翌年の1924年、プッチーニはブリュッセルで治療を行っていましたが、亡くなってしまいました。作曲途中だった代表作「トゥーランドット」は、未完成のままだったようです。
ドーリア・マンフレーディ事件について
プッチーニの妻エルヴィーラは嫉妬深い性格だったらしく、プッチーニと女中の浮気を疑って、その女中を責め立てるようになりました。嫌がらせは大きくなっていき、ついに女中は自殺をしてしまいます。実際プッチーニは、女性関係にだらしないことでも知られていたそうですが、この時の女中とは不倫関係にはなかったようです。誤解だったと証明された後、エルヴィーラは起訴されることになり、世間を騒がせました。
ちなみに妻のエルヴィーラは、もとは他の男性の奥さんだったのですが、プッチーニと不倫関係にあり駆け落ちをした女性でした。またエルヴィーラには、プッチーニとの駆け落ちの時点ですでに娘と息子がいたようです。しかし、エルヴィーラは娘だけを連れて駆け落ちをしました。その後、プッチーニとの間にも子供が生まれています。また、結婚するまでにはかなりの長い期間を要したそうです。
またこの大きな事件は、後に映画化もされました。その映画の内容によると、妻エルヴィーラがプッチーニと女中の浮気を疑ったのは、エルヴィーラの連れ子だった娘の言葉が原因だったとされています。
プッチーニの作品
最後に、プッチーニの代表作や作品の特徴に関して少し紹介をします。
作曲ジャンルと特徴
オペラが有名な作曲家というイメージが強いプッチーニですが、冒頭で少し触れたように、生まれは宗教音楽家の家系でした。そのため宗教曲として声楽曲の作曲をしたこともありましたし、また器楽曲の作品も残されています。
またオペラ作品に関しては、伝統的なイタリア・オペラにのっとった、劇的な表現力と描写で知られています。
作品をいくつか紹介
プッチーニの代表作としてよくあげられるのは、プッチーニの生涯についての紹介で題名を出した「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「西部の娘」などの作品が主ですが、ここでは、オペラの作曲家として世に出るきっかけとなった最初の作品と、それに関する2作目について紹介します。
オペラの最初の作品である「妖精ヴィッリ」は、先に紹介した、コンクールに提出した作品です。受賞はしなかったものの、1884年に初演が行われると成功を収めました。1作目で良い流れを掴んだプッチーニは、この作品がきっかけで出版社からの声がかかります。
そして、出版社から依頼があって作曲されたのが、2作目の「エドガール」でした。しかし、この2作目はあまり評判が良くなかったようで、出版社からの依頼により改訂が行われています。また不評の原因は、急な展開を含めた台本の内容が問題だったそうです。
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