ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティってどんな人?その生涯や性格・死因は?

出典:[amazon]D.スカルラッティ:宗教声楽作品集

今回は、バロック時代にイタリア音楽家として活躍したジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(以下スカルラッティ)についてまとめさせていただきます。どのような人生を歩んできたのか見ていきたいと思います。

スカルラッティは1685年にイタリアのナポリ地方にて生まれました。バッハ家と同じように音楽一家の10人兄弟の6人目として生まれたため幼いころから音楽を学んでいたと思われます。

また、スカルラッティのお父さんはあの有名な作曲家のアレッサンドロ・スカルラッティです。そのため教会や音楽監督として任せてもらうなど仕事には困りませんでした。スカルラッティの当時のことについてはあまり残っておらずあくまで憶測となってしまいますが、彼は嘸かし作曲家としてもオルガニストとしても優秀だったと思います。

いくら、自分のお父さんが有名な作曲家で仕事をたくさん持って帰ってきてくれたとしてもその子供であるスカルラッティが音楽の才能を見出すことが出来なかったら教会のオルガニストや音楽監督として就任することはできないと思います。彼は音楽の才能を持っておりそれを発揮することが出来周りに認めてもらうことが出来たからこそ仕事を任せてもらえ様々な楽曲を世に送り出すことが出来たと思います。

また、ローマではお父さんの地位を引き継ぎ女王の音楽監督兼作曲家としても就任しています。彼は自分の父親の地位を引き継ぐことが出来るほどの音楽の才能を兼ね備えていたのですね。

生涯

スカルラッティは1685年に当たりあのナポリにて生まれました。時代はバロック音楽の作曲家です。スカルラッティは10人兄弟の6人目として生まれました。父親はあの有名な作曲家のアレッサンドロ・スカルラッティです。

そのため、音楽一家の中で生まれ育ちました。幼少期のエピソードに関してはあまり残っておりませんがスカルラッティは15歳になった年にナポリの教会にて作曲家兼オルガニストとして就任しています。そのため幼少期から作曲は勿論オルガンの練習も欠かさず行っていたことが見て取れますね。

そして4年後の1705年に父親の命令で拠点をヴェネツィアに移したそうですがここでスカルラッティがどのようなことをしたかは残っておりません。またその4年後の1709年から次はローマに移り住み、ポーランド王妃マリー・カジミールの音楽監督という職を得ました。また現バチカン市国にあるカトリック教会である「サン・ピエトロ大聖堂」のジュリア礼拝堂でも働き、5年後に音楽監督であったトンマーゾ・バイが亡くなると、スカルラッティは音楽監督という位置を引き継ぎました。

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このようにスカルラッティは仕事に困ることはなく作曲家として活動する次には音楽監督としての仕事を得ることが出来ました。また、スカルラッティがジュリア礼拝堂で音楽監督として働いているときにポルトガル大使のフォンテス侯爵と知り合い、5年後の1719年にポルトガル王ジョアン5世はスカルラッティを王室礼拝堂の音楽監督として任命しました。この年の11月にスカルラッティはリスボンに到着しジョアン5世王の兄弟に音楽を教えていました。

そしてスカルラッティはが43歳になった1728年にイタリアにて16歳の少女マリア・カタリーナ・ジェンティリと結婚しました。スカルラッティが教えていた王の兄弟であるマリア・マグダレーナ・バルバラ王女がスペイン王家に嫁いだためマドリードへ移ります。1738年にジョアン5世はスカルラッティをサンティアゴ騎士団というイタリアでの庇護の下設立された騎士団に叙しました。

その後スカルラッティは初めてソナタ集を出版しジョアン5世に贈りました。このソナタ集の最後に入っていたのは有名な「猫のフーガ」でした。これによりスカルラッティの名声はヨーロッパ中に広がりました。しかしこの曲集は実は練習曲集で出版されており約280年間「ソナタ曲集」という間違った情報で後世に伝承されていました。

その後1739年に奥さんが亡くなってしまいますがその3年後に再婚しています。そしてその後はあまり情報が残っておらずスカルラッティは1757年71歳、マドリードで亡くなりました。生涯で約600曲弱作曲されたと言われていますが実は彼の555曲の自筆譜が失われており今の世界に残っている楽譜のほとんどは写譜です。

性格

正直な話、スカルラッティについての情報がほとんど残っていないため憶測となってしまいますが、スカルラッティの作曲の特徴を見てみると様々な所で観客や奏者をびっくりさせるような作曲の技法が施されています。

例えば、誰もが予想だにしていなかった突然の休符や大幅な転調があります。そのため、1曲1曲作曲していくうえで「なにか曲中に取り入れたい」と思うような少年の心がスカルラッティにはあったのではないかと思います。

また、作曲は勿論音楽の様々な面で人に認められたため次から次へと仕事が舞い込んできたと思います。

死因

実は死因ははっきりしていません。1757年71歳で亡くなったことはわかっていますが死因については明らかにされていません。謎の多い作曲家ですね。

まとめ

今回はスカルラッティについてまとめさせていただきました。様々なところが解明されておらず謎多き作曲家です。しかし、わかっている生涯や作品の特徴などをよく見とってみるとその作曲家の個性は勿論その人の人生も見ることが出来るのでとても面白いですね。

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