イーゴリー・ストラヴィンスキーってどんな人?その生涯や性格は?

出典:[amazon]Stravinsky conducts Stravinsky

イーゴリー・ストラヴィンスキー(1882-1971)は、20世紀を代表するロシアの音楽家です。
多くの写真や映像が残っているので、その容姿に見覚えがある人も多いでしょう。
卵型の面長な顔、大きな鼻、丸メガネからのぞくギョロっと見開かれたつぶらな瞳が特徴的ですね。
ストラヴィンスキーは、90年近い生涯の中で約110の曲を書き、作曲家として名を残しましたが、ストラヴィンスキー本人についてはあまり知らないという方も多いです。

そこで今回は、ストラヴィンスキー本人に焦点を当て、その生涯や性格についてご紹介していきます。

ストラヴィンスキーの生涯

まずストラヴィンスキーの生涯についてお話します。
どんな音楽教育を受けたのか、どんな国で過ごしたのかなどまとめました。

音楽一家に生まれるも法学部へ

ストラヴィンスキーは、ロシアペテルブルグ近郊のロモノーソフで誕生。
父親はペテルブルグの有名オペラ歌手、母は父の伴奏者という音楽一家の三男に生まれ、8歳頃からピアノの手ほどきを受けます。
しかし、父親は息子が自身と同じ音楽家として身を立てることに乗り気では無かったため、ペテルブルグ大学法学部に行かせます。
因みに、ストラヴィンスキーの父もペテルブルグ大学の法学部を出ています。
音楽家という、安定した収入が得にくい職業で万が一上手くいかなかった時の打開策として、息子にも法律の勉強をさせたのかもしれません。

法学部で得た人脈と作曲家への転機

ストラヴィンスキーは父の言いつけ通り、ペテルブルグで法律の勉強を受けました。
そしてここで思わぬ人脈を手に入れることになります。
なんと、ロシア五人組の一人として名高いリムスキー=コルサコフの第7子ヴラディミールと知り合い、交友を深めることになるのです。
ヴラディミールを介して大作曲家リムスキー=コルサコフとも知り合えたストラヴィンスキーは、さっそく師弟関係を結び、作曲指導をコルサコフに仰ぎます。
コルサコフと師弟関係を結んだ年に、音楽家になることを快く思っていなかった実父が他界したこともあり、ストラヴィンスキーは作曲家になる決意を新たにします。

世界的な作曲家へ

コルサコフの元で研鑽を積んだストラヴィンスキーは、ロシアの舞踊興行主として名を馳せていたセルゲイ・ディアギレフの目に留まり、バレエ曲の依頼を受けます。
依頼を受けて作られた『火の鳥』、その成功を受けて作られた『ペトルーシュカ』、『春の祭典』いずれも大成功を収め、ストラヴィンスキーは作曲家として確固たる地位を確立したのです。

革命と変化

ディアギレフとの仕事が多忙になると、ロシアを離れフランスやスイスで仕事をすることが多くなりました。
1917年、スイスで作曲活動に精を出していたストラヴィンスキーですが、母国のロシア革命勃発によって帰郷が禁止される事態に陥ります。
当然、故国からの経済的援助もシャットダウンされ、経済的に非常に厳しい時期を過ごすことになります。
この経験は作曲にも影響し、それまでの原始主義的な作風から新古典主義的な作風へと変化していきました。
故国を追われたストラヴィンスキーはフランスで作曲活動、演奏活動に勤しむことになります。

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アメリカでの細々として生活

1939年、第二次世界大戦の動きが活発化すると、ストラヴィンスキーは家族と共にアメリカに亡命しますが、同年妻と母を亡くします。
家族と故郷の喪失感からしばらく作曲活動は停滞を見せることになります。
ストラヴィンスキーは、作曲活動の代わりに「フランスの作曲家」(34年にフランス国籍を取得していることに因んで)として細々コンサート活動をし、ハーバード大学などで音楽についての講演を行ったりしました。

再起!再び作曲家として

ストラヴィンスキーが再び作曲家としての意欲を取り戻したのは、それから約10年も後になります。
ニューヨーク・フィルハーモニーからの依頼で、『3楽章のシンフォニー』を1946年に発表し、これを機に再び作曲活動に火が付きます。
そこからストラヴィンスキーは、シェーンベルクの十二音技法やセリエルな作曲技法の研究を行い、それらを用いた宗教曲を多数書き上げました。

ストラヴィンスキーと女性

ストラヴィンスキーとココ・シャネルのスキャンダルは有名な話ですが、ストラヴィンスキーはココ・シャネルに至るまで複数の女性と浮名を流したことでも知られています。
生涯では2度結婚しています。
最初の結婚は24歳の時で、1歳年上の従姉カテリーナと結婚、翌年には子供にも恵まれています。
二度目の結婚は58歳の時で、かねてより長きに渡って不倫関係にあったヴェラ・ド・ボスと再婚しました。
ヴェラとの結婚は、カテリーナの死去すぐでした。
カテリーナが亡くなり、間を置かずにヴェラをアメリカに招いたストラヴィンスキーは、翌年には再婚したのです。
正妻の死を待っていたかのような再婚に賛否が巻き起こったのは言うまでもありません。

社交的?幅広い交友関係から見るストラヴィンスキーの性格

ストラヴィンスキーは、生涯を通じて各国の音楽家や芸術家と親交を深めました。
コルサコフに師事していた時代には、師匠の周りに集まってくる音楽家や作家などと交流を深め、ディアギレフと仕事をするようになった時代はフランスで、ラヴェルやドビュッシー、サティ、ファリャといった音楽家と交流を持ちます。
サロンや音楽家との交流会には積極的に参加していたところを見ると、スクリャービンがいかに社交的な人物であったかが窺い知れます。

おわりに

いかがでしたでしょうか。
大作曲家というと、ちょっと狂った人物、人付き合いが苦手な人物、近寄りがたい人物、気難しい人物を想像しがちですが、ストラヴィンスキーは全く正反対な人物だったようです。
社交的な明るい性格は、彼の作品からも感じることができますね。
ストラヴィンスキーに興味を持ったという方は、是非彼の代表作である三大バレエ音楽を聴いてみてください。

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