ジャコモ・マイアベーアってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ジャコモ・マイアベーアは、18世紀末のドイツに生まれ、ヨーロッパ各地で絶大な人気を獲得した19世紀を代表する作曲家です。彼の才能の大半は舞台作品に注がれており、『悪魔のロベール』や『ユグノー教徒』などの作品により、グランド・オペラの黄金時代を築きました。リヒャルト・ワーグナーによる痛烈な批判により、マイアベーアの死後、その作品群の多くは忘れ去られましたが、近年再び注目を集め、新たな演出による舞台の上演や録音が行われています。そこで今回は、グランド・オペラの立役者ジャコモ・マイアベーアの華々しい人生について解説します。

ジャコモ・マイアベーアの生涯について

マイアベーアの生涯について紹介します。音楽家史上において、これほどまでに恵まれた、そして成功した音楽家は他に類を見ないのではないでしょうか。

裕福な銀行家の家に生まれる

ジャコモ・マイアベーアは1791年、ベルリン近郊の街タースドルフに生まれました。父が銀行家を営んでいたため、家はとても裕福だったそうです(1791年というと、天才モーツァルトがこの世を去った年ですね)。少年時代からピアノの才能を示したマイアベーアは、わずか12歳で音楽院を卒業し、『魔弾の射手』の作者ウェーバーと共にフォーグラー神父から作曲の手ほどきを受けます。

その後クレメンティやアントニオ・サリエリに作曲を学んだマイアベーアは、20代前半に『イエフタの誓い』や『主人と客』などのオペラを作曲。残念ながらこれらの作品は成功しませんでしたが、1816年、サリエリの勧めにより、マイアベーアはイタリア行きを決意します。イタリアに渡ったマイアベーアを待っていたものは、ロッシーニによる絢爛豪華なオペラでした。歌劇『タンクレーディ』を一目見てその作品に魅了されたマイアベーアは、すぐさまロッシーニの元を訪ね、歌劇作曲家を志します。

ロッシーニとの出会い、そして人気作曲家へ

イタリアに渡りロッシーニと知遇を得たマイアベーアは、まもなくその才能を開花させ、『ロミルダとコンスタンツァ』(1817年)を皮切りに、『見出されたセミラーミデ』(1819年)、『グラナダからの亡命者』(1822年)などのヒット作を次々と発表。そして1824年にヴェネツィアで上演した『エジプトの十字軍』が大成功を収めると、マイアベーアは新天地を求めてパリを目指します。

当時のパリ社会はユダヤ人にも十分な市民権が与えられており(マイアベーアはユダヤ人でした)、その他にも、著作権の確立や作曲家の報酬も高額だった点において、マイアベーアにとってパリはうってつけの場所でした。そしてイタリアで大成功を収めた『エジプトの十字軍』が上演されると、たちまちマイアベーアの作品は人気を獲得し、フランス・パリの地でも早くから知名度を得るに至ります。

その後もマイアベーアの躍進は続き、『悪魔のロベール』や『ユグノー教徒』、『預言者』の大ヒットにより、グランド・オペラの一時代を築き上げます。1830年代末にはリヒャルト・ワーグナーと出会いますが、この出会いはマイアベーアにとって良いものにはならなかったようです。

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晩年も人気は衰えず

1840年代、活動拠点をパリとベルリンに移したマイアベーアは、プロイセン王立音楽監督に任命され、宮廷音楽監督という重要なポストを任されます。その間も意欲的に作品を発表したマイアベーアは、1843年の火事により消失したベルリンオペラハウスの新館が建設されると、フリードリヒ大王の生涯を描いた『シューレージエンでの野営』を発表し、この作品でも大きな成功を収めました。

1850年代になり、マイアベーアは次第に体調を崩し始めます。なかでも1854年に最愛の母を亡くした事は、マイアベーアにとって大きな精神的負担となったようです。しかしそれでも作曲は続けられ、この年に発表した『北極星』は聴衆から大きな支持を獲得し、マイアベーアの晩年を代表する作品となりました。

おもにオペラの作曲に尽力したマイアベーアですが、オペラ作品以外にも多くの作品を残しています。プロイセン王ウィリアム1世の戴冠を祝した『戴冠行進曲』や、1862年にロンドンで開かれた万国博覧会用序曲などは、オペラ作品とは異なるマイアベーアの音楽的センスが垣間見られる良作です。ロンドン万国博覧会開催から2年後の1864年、マイアベーアは72歳で人生の幕を閉じます。残念ながら、詳しい死因はわかりませんでした。

ジャコモ・マイアベーアにまつわるエピソードは?

今回はマイアベーアに関するエピソードを簡単に2つ紹介します。

総合プロデューサーとして

オペラ作曲家として絶大な人気を博したマイアベーア。しかし彼の才能は音楽だけにとどまりませんでした。マイアベーアは劇場運営に関するあらゆる事(台本や衣装、ダンスや舞台装置、演出など)に目を光らせ、完璧な作品を作りあげることに全力で取り組みました。

とりわけ歌手の起用には厳しく、「マイアベーア自らが指定した歌手が出演しなければ、作品を上演させない」という事態もしばしばあったそうです。芸術家であると同時に、職人気質もうかがえるエピソードです。

マイアベーアの自宅を訪ねたロッシーニが気絶する

これはマイアベーアのエピソードというよりも、ロッシーニのエピソードですが・・・。1864年、マイアベーアは72歳でこの世を去りましたが、ロッシーニはマイアベーアの訃報を知らずに、彼のアパートを訪ねてしまいます。

アパートでマイアベーアの訃報を知ったロッシーニは、ショックのあまりその場で失神したそうです。きっと2人の間には、師弟関係を超えた友情が結ばれていたのでしょうね。

まとめ

ジャコモ・マイアベーアの生涯について解説しました。その一生を辿ってみると、彼ほど音楽的才能と幸運に恵まれた作曲家は他に例を見ないかもしれません。ロマン派の作曲家メンデルスゾーンも才能と家柄に恵まれていたものの、マイヤベーアほど長生きはできませんでした。また、マイアベーアは単なる作曲家にとどまらず、音楽プロデューサーとしてもその手腕を発揮しています。

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