ジャン=フィリップ・ラモーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ジャン=フィリップ・ラモー:鍵盤音楽全集 第2集

ジャン=フィリップ・ラモー(以下ラモー)という作曲家をご存知ですか?。もしご存知の方がいたら、かなりのクラシック愛好家かもしれません。1683年に生まれたラモーは、大バッハやヘンデルと時代を同じくする、フランスを代表するバロック時代の作曲家です。

代表作に『クラヴサン曲集』がある他、50代からはオペラ作曲家としても名声を博しました。そんな偉大な作曲家ラモーとはどのような人生を歩んだのでしょうか。今回はラモーの人生について解説します。

ラモーの生涯について

ラモーの生涯について解説します。文献が少ないため、ラモーの人生について詳しいことは分かっていませんが、調べてみたところ、人生の後半でその才能が花開いたようです。

オルガニストとして

ラモーは1683年、フランスブルゴーニュ地方のディジョンに生まれました。父ジャンはディジョン大聖堂でオルガニストを務めた人物だったため、その影響によりラモーも音楽に関心を抱いたのは想像に難くありません。

幼少期からクラヴサン(チェンバロ)を学んだラモーは、一時期法学者を志すものの、1701年、数ヶ月に及ぶイタリア留学から帰国後、アヴィニヨン大聖堂のオルガニストに就任します。

その後、パリ、ディジョン、リヨンの教会オルガニストを歴任したラモーは、1709年から父の跡を継ぎディジョン大聖堂のオルガニストを務めます。

この間に『クラヴサン曲集第1巻』を出版しましたが、当時はそれほど評価されませんでした。1723年からパリに定住し、いくつかの教会でオルガニストとして生計を立てていました。

遅咲きの大作曲家

1731年、教会オルガニストとして生活していたラモーに転機が訪れます。この年に知り合った音楽愛好家ラ・ププリニエール(※1)の私設楽団の音楽監督に就任したラモーは、彼の援助を得たことで収入が安定し、以降オペラの作曲に専念し始めます。

そして1733年、最初のオペラ『イポリットとアリシー』を発表。この作品の成功により、ラモーの名声は一気に高まることになります。この時ラモーはすでに50歳でした。

最初のオペラの成功を皮切りに、ラモーは次々と作品を生み出し、オペラ・バレエ『優雅なインドの国々』、『プラテ』、『レ・ボレアド』など数多くの名作を世に送り出しています(近年、その中のいくつかが再発見され、新しい演出で上演される機会が増えてきています)。

オペラの成功でその地位を不動のものにしたラモー。1745年以降、ルイ15世お抱えの宮廷作曲家となり、名実ともにフランス第1の音楽家になったラモーは、80歳で生涯を終える30年の間に、延べ30曲ものオペラを作曲しています。

※1、ラ・ププリニエールは政府に代わって税金を徴収する徴税請負人として財を成した人物です。

晩年

宮廷音楽家として、そしてオペラ作曲家として名声を獲得したラモーは、一方で「音楽理論家」としても重要な役割を果たしています。

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なかでも、1715年から1722年にかけて執筆した『自然原理に還元された和声論』において、ラモーは和声の原理を確立し、長調と短調を体系化した人物としても知られています。このような音楽理論研究は晩年も続けられ、亡くなる前の13年間で23冊もの理論書を書き残しています。

そして晩年のラモーは、芸術に対する活動が高く評価され、1764年、貴族に列せられるまでになります。しかし同年、最後のオペラ『アバリス、または北風の神々』のリハーサル中に倒れ、80歳でこの世を去りました。

死因について調べてみたものの、残念ながら詳しいことはわかりませんでした。しかしラモーの葬儀は国葬として執り行われ、葬儀には1500人もの人々が参列し、偉大な音楽家の死を悼んだと言います。

性格を物語るエピソードについて

ラモーのエピソードについて紹介します。バロック時代の人物のため、資料は多くありませんが、忍耐強い人物だったことが窺えます。

子供の頃の夢を50歳にして叶える

上述したように、ラモーの才能が開花したのは50歳に差し掛かろうとした頃でした。それまで、オルガニストやクラヴサン曲の作曲家として活動していたものの、ラモーの評価はあまり高くはありませんでした。しかしオペラの成功により確固たる地位を確立したラモーは、後年、自身の成功について次のように語っています。

「私は12歳の時から舞台の追っかけをしていました。オペラの仕事を始めたのは50歳の時で、私にはまだその力がないと思っていました。しかしやってみたところ、幸運にも続けることができたのです」(1744年)。

ラモーは夢を追い続ける、忍耐の人物であったことが想像できます。いつの時代も「継続」と「チャレンジ」こそが成功の鍵なのかもしれません。

哲学者ルソーと論戦を繰り広げる

ラモーは晩年、フランス音楽とイタリア音楽をめぐる論争「ブフォン論争」を展開しています。「ブフォン」とは「道化師」を意味するイタリア語で、ペルゴレージのオペラ・ブッファ『奥様になった女中』がパリで上演されたことに端を発します。

これをきっかけに伝統的フランス音楽を支持したラモーと、イタリアのオペラ・ブッファを支持するルソーやディドロといった啓蒙思想家との間で大きな議論が巻き起こり、ラモーはイタリア・オペラ支持派の矢面に立たされることとなりました。そんな中でも、ラモーはフランス音楽の伝統を強く主張し続け、ルソーらと激しい議論を戦わせています。

音楽理論家でもあったラモーは、信念の人でもあったわけです。

まとめ

今回はラモーの人生について紹介しました。普段クラシック音楽を聴かない方にも、興味を持っていただければ幸いです。20世紀後半以来ラモーの作品は再評価され、近年、新しい演出によるオペラも好評を得ています。オペラ以外にもクラヴサン作品など優れた名曲が多くありますので、この記事を機会に、是非ラモーの作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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