パブロ・カザルスってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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今回は20世紀最大のチェリストであるパブロ・カザルスを紹介します。パブロ・カザルスはチェロの近代的奏法を確立し、世界的な演奏家・指揮者として多大な功績を残しました。

2度の世界大戦を乗り越えたカザルスは、90代になってもなおその向上心は衰えず、96歳で亡くなるまで現役を貫きました。そんな偉大なるチェリスト、パブロ・カザルスはどのような人生を歩んだのでしょうか。
本記事では、エピソードを交えながらその生涯に迫ります。

パブロ・カザルスの生涯

パブロ・カザルスは偉大な音楽家であると同時に、平和活動にも尽力しました。彼が演奏した『鳥の歌』は、平和の象徴として現代にも語り継がれています。

チェロの音色に魅了された少年時代

パブロ・カザルスは1876年、スペインのカタルーニャ地方アル・パンでレイに生まれました。父カルロスは教会オルガニストを務めた人物で、幼いカザルスに厳しい音楽教育を施したといいます。

しかし、カザルスは類い稀なる音楽的才能を発揮し、4歳でピアノを始め、6歳の頃にはすでに作曲も開始します。幼少期のカザルスの才能について父カルロスは「言葉よりも早く音楽を理解した」と述べ、その才能に驚きを隠せませんでした。

そんなカザルスに最初の転機が訪れます。ある日、三重奏コンサートで聴いたチェロの音色に心奪われたカザルスは、なんとかチェロを学びたいと父に願い出ます。最初は渋っていた父カルロスですが、カザルスの熱意に根負けし、チェロを学ぶことを許可します。
そして11歳でチェロを弾き始めたカザルスは、教師も驚くほどのスピードで上達し、チェロの名手として瞬く間に街に知れ渡るようになりました。

その後1888年にバルセロナへ移住したカザルス一家。カザルスは同年バルセロナ市立音楽院へ進学し、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲の基礎を学びます。

バッハ『無伴奏チェロ組曲』との運命的な出会い

バルセロナ市立音楽院で学び始めてから2年後の1890年。カザルスにとって2度目の転機が訪れます。
父と一緒に街の楽譜・楽器屋にスコアを探しに赴いたときのこと。そこでカザルスはバッハ作曲『無伴奏チェロ組曲』の古い楽譜を偶然手にします。

作品の完成度と美しさに魅了されたカザルスはスコアを家に持ち帰り、それから13年間休まず練習を続けたそうです。

その甲斐もあったのか、1896年、カザルスは弱冠20歳でバルセロナ市立音楽院の教師に抜擢されます。またこの頃、オペラハウス・オーケストラの首席チェリストにも任命され、カザルスの名は徐々に広く知れ渡り始めました。それは、マドリッド交響楽団のソリストとして出演し、女王からカルロス3世勲章を授与されたのも後押しになったのかもしれません。

世界的チェリストとして活躍

1899年、パリでデビューしたカザルス。意外にもデビュー当初は貧しい生活に苦しんだそうです。
しかし、指揮者シャルル・ラムルーにその才能を見出されると、瞬く間にカザルスの演奏は評判となり、ソリストデビューは大成功の内に幕を閉じます。

この成功以来、カザルスは新進気鋭のチェリストとして人気を獲得し、ロンドン、パリ、アメリカで大絶賛を受けることとなります。

そして20世紀に入って間もなくすると、ピアニストのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーと共にカザルス三重奏団を結成し、人気トリオとして注目を集めました。またこの頃からカザルスは指揮活動を開始し、チェリスト・指揮者として音楽活動の幅を広げます。

第1次世界大戦中が勃発すると、カザルスはアメリカに亡命し終戦を待ちます。
終戦後は再びヨーロッパを中心に精力的に音楽活動を行う一方で、故郷カタルーニャに「パウ・カザルス管弦楽団」を設立。カザルス自らがオーケストラ費用を捻出し、指揮も行うなど、音楽の普及に務めます。

第2次世界大戦後から晩年

世界的チェリスト・指揮者として揺るぎない名声を獲得したカザルスですが、またもや戦争の足音が近づき始めます。1930年代にナチス・ドイツが台頭し始めると、カザルスはドイツでの演奏を拒否することに。一方コルトーは、ドイツの人々にも音楽を届けようとしたため、このことがきっかけとなり世界的トリオは解散となりました。

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戦中・戦後と演奏活動を自粛したカザルスですが、1950年にアレクサンダー・シュナイダーの説得によりバッハ没後200年を記念する名目で演奏活動を再開します。

1950年代半ばからはカザルスの母、そして妻マルタの故郷であるプエルトルコに本拠地を移し、世界各国で精力的に演奏・指揮活動を行いました。
また1961年には来日し、東京交響楽団や京都市交響楽団を指揮しています。

1971年、カザルスはニューヨーク国連本部で演奏し、長年にわたる功績により国連平和賞を授与されています。そしてその2年後の1973年、心臓発作のためにプエルトリコにてこの世を去りました。享年96歳という大往生でした。

パブロ・カザルスにまつわるエピソード

パブロ・カザルスには多くのエピソードが残されていますが、今回はその中から厳選した3つのエピソードを簡単に紹介します。

ブリュッセル音楽院にて

1895年、カザルスはバルセロナからブリュッセル王立音楽院への転入を考えていました。試験当日、教師が「君のレパートリーは何か?」と尋ねます。
それに対してカザルスは、「どんな曲でも弾けます」と答えたそうです。異国から来たカザルスに対してあまり良い感情を抱いていなかった教師は、「ではセルヴェの『スパの思い出』はどうかね?」と促します(セルヴェは「チェロのパガニーニ」と言われるほどの人物です)。

もちろん教師や周囲の生徒たちは、そんな難曲を弾きこなせるとは思っていません。

ところがカザルスは、難曲『スパの思い出』を見事に弾きこなし周囲を驚かせます。教師はカザルスへの非礼を詫び、音楽院に止めようとしましたが、カザルスはこれに断固として応じませんでした。カザルスの強い信念が垣間見えるエピソードです。

平和への祈りを込めて

第2次世界大戦が始まると、カザルスは演奏活動を停止しプラドに身を隠します。そして終戦後、演奏活動を再開したカザルスのもとに、国連本部で演奏する機会が訪れます。1971年のことでした。ニューヨーク国連本部で行われた『鳥の歌』の演奏は、歴史的名演として現在も語り継がれています。
このときカザルスが語った「私の生まれた故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(平和)と鳴くのです」という言葉はあまりにも有名です。平和への祈りを込めたカザルスの魂の訴えだったのかもしれません。

向上心は衰えない

こちらもカザルス晩年のエピソードです。アメリカのコメディアンがカザルスにインタビューしたときのこと。90代になっても毎日練習を続けるカザルスに「あなたはなぜ今でも1日3時間もチェロの練習を続けるのですか?」と問いかけます。
この質問にカザルスは「(この年になって)少しは上達が見られるようになったから」と答えたそうです。
このインタビューからおよそ3年後にカザルスはこの世を去りますが、絶え間のない向上心がうかがえる感動的なエピソードですね。

パブロ・カザルスの演奏動画

カザルスの祈りのような演奏は、平和を願う世界中の人々に大きな感動を与えました。ここでは、カザルスの代名詞ともいえるバッハ作『無伴奏チェロ組曲第1番』と国連での『鳥の歌』の演奏動画を紹介します。

パブロ・カザルスの演奏について指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは次のように述べています。

「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことがない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」

J S Bach 無伴奏チェロ組曲第1番

カザルス「#鳥の歌」1971国連

まとめ

今回は20世紀を代表するチェリスト・指揮者パブロ・カザルスについて解説しました。バッハの『無伴奏チェロ組曲』を再発見した偉業はもちろんのこと、平和を訴えた『鳥の歌』は何度聴いても心が癒されます。

音楽を通じてカザルスが訴え続けたことが、いつまでも消えることなく、これからも多くの聴衆に届くことを願うばかりです。
カザルスの演奏や『鳥の歌』をまだ聴いたことがない方も、ぜひ本記事で一度聴いてみてください。きっと、心に響くものがあると思いますよ。

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