アルフレッド・コルトーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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アルフレッド・コルトーは、19世紀後半から20世紀半ばまで活躍したフランス出身のピアニスト・指揮者・教育者です。ショパンやリスト、シューベルトといったロマン派の作品を得意とし、その演奏は後世のピアニストに多大な影響を与えました。

また、作曲家ガブリエル・フォーレの意向により、パリ国立高等音楽院の教授に任命されたコルトーは、マグドレーヌ・ブラール、マルグリット・モノーなどの優れた音楽家を輩出した教育者としても活躍しています。
では20世紀に偉大な足跡を残したアルフレッド・コルトーはどのような人生を歩んだのでしょうか。今回はその生涯について解説します。

アルフレッド・コルトーの生涯について

激動の時代を生き抜いたアルフレッド・コルトーはどのような人生を歩んだのでしょうか。
偉大な音楽家も、若き日に大きな挫折を経験したようです。

幼少期からデビューまで

アルフレッド・コルトーは1877年、フランス人の父とスイス人の母との間に、スイスのニヨンに生まれました。コルトーには2人の姉がおり、最初の音楽の手ほどきも姉たちによるものでした。

コルトーが5歳の頃、本格的に音楽を学ばせるために一家はジュネーブに移り住みます。意外にも子供の頃のコルトーはいわゆる「天才児」ではなかったそうです。

その後、絶え間ない努力の末にパリ国立高等音楽院に入学したコルトーは、ピアノをアントン・ルービンシュタインに師事し、その腕を磨きます。音楽院のコンクールではなかなか好成績を残せなかったコルトーですが、1896年にショパンの『バラード4番』で最高位を受賞。その年から翌年にかけて、憧れの地バイロイトにて「バイロイト音楽祭」の助手を務め、さらにワーグナーの妻コジマと出会ったことが刺激となり、指揮者になることを決意します。

演奏家・指揮者として

その決意通り、1902年から指揮者として活動したコルトーは、ワーグナーの『神々の黄昏(たそがれ)』やブラームスの『ドイツ・レクイエム』、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のフランス初演を手がけるなど、目覚ましい成果をあげます。

しかし順調に思われた指揮活動も長くは続かず、徐々にパトロンがいなくなり始めると、コルトーは指揮者としてのキャリアを断念し、ピアニストへと転身します。

ピアニストとして再スタートしたコルトーは、ヴァイオリニストのジャック・ティボー、チェリストのパブロ・カザルスと三重奏団を結成。新進気鋭の若手演奏家によるトリオは世界的な人気を獲得します。1907年、ガブリエル・フォーレの紹介により、母校のパリ国立高等音楽院の教授に就任し、1923年までの16年間を教育活動に捧げました。

第1次世界大戦を乗り越えて

第1次世界大戦に突入すると、コルトーはピアノの仕事を中断し、戦場に出た兵士のために公園を企画するなど、愛国的な活動に専念するようになります。また、1916年にはフランス当局から「芸術宣伝担当」を任され、連合国や中立国に向けた数多くのイベントや展覧会、演劇、コンサートも企画し多くの同胞を励ましたそうです。

第1次世界大戦後の1919年には、コルトー自らの理想を形とした音楽学校エコール・ノルマール音楽院を設立し、後進の育成に尽力しました。同音楽院の卒業生には、夭折の天才ピアニスト、ディヌ・リパッティなどがいます。

1920年には、フランス政府がスポンサーとなり、アメリカやロシア(ソビエト連邦)へのプロモーションツアーを行い、わずかながら指揮者としての活動も再開しました。

第2次世界大戦後から晩年

第2次世界大戦中のコルトーは、ヴィシー政権の芸術担当高等弁務官を引き受け、国民会議の委員をつとめるなど政治的動向が強まります。しかし戦後はナチス・ドイツとの関係が問題となり(ピアノ演奏を披露するなど)、1年間の演奏活動停止処分を受けてしまいます。

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活動停止処分が終了し演奏活動を再開したコルトーは、1シーズンに100回以上のコンサートを開くなど、再び聴衆を魅了します。1952年には日本にも訪れ、9月から11月の2ヶ月間にわたり、全国で意欲的にコンサートを開催しました。

数々の名演を残したコルトーですが、来日から10年後の1962年6月15日、腎不全による尿毒症のため、スイスのローザンヌにて84歳でこの世を去りました。

アルフレッド・コルトーにまつわるエピソード

ここでは、アルフレッド・コルトーの厳選エピソードを3つ紹介します。
偉大な音楽家は、日本の風景を心から愛したようです。

カミーユ・サン=サーンスに酷評される

いまでこそ20世紀を代表するピアニストとして知られるコルトーですが、学生時代には苦労も多かったそうです。なかでも有名なのは、作曲家カミーユ・サン=サーンスとのエピソード。

ある日、授業を視察するためパリ音楽院を訪れたサン=サーンス。偉大な音楽家の突然の来校に、学生たちに緊張が走ります。

そんな中、コルトーはサン=サーンスに「君の専攻は?」と声をかけられたそうです。それに対し「ピアノです」と恥ずかしさと緊張で顔を紅潮させながら応えると、サン=サーンスは「へえ、君程度の才能でもピアニストになれるものかね」と手厳しい一言。これにはコルトーも一転、顔面蒼白になったと言われています。

多くのユダヤ人音楽家を救う

19世紀後半から20世紀半ばを生きた芸術家のすべてがそうであったように、この時期は世界的に激動の時代でした。そしてコルトーも例外ではなく、2つの戦争に人生を翻弄されます。とくに第2次世界大戦におけるナチス・ドイツのユダヤ人迫害は、音楽家たちにとっても甚大な被害をもたらしました。

そのような状況を少しでも解決しようと立ち上がったのがコルトーでした。
コルトーは多くのユダヤ人音楽家や芸術家のために、強制労働の一環としてドイツへの出国を阻止したり、占領当局に逮捕された人々を解放したりしました。場合によってはコルトー本人にも危険が及ぶ行為ですが、音楽を愛する彼の覚悟が伝わるエピソードです。

日本での安らかな人生を夢見る

1952年に来日したコルトーは、9月から11月にかけて各地でコンサートを開きました。そんな彼が山口県のホテルに滞在したときのこと。ホテルから眺める島々の美しい風景に感動したコルトーは「こんなに美しい夢のような島はみたことがない」、「永久にここに住んでも悔いはない」と弟子に話したといわれています。

そして当時の村長に「天国のようなあの島でこっそり死にたい。ぜひ買い取りたい」と申し出ます。初めは冗談だと思った村長でしたが、コルトーが本気だとわかると「あの島にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と快諾し、コルトーは大喜びしたそうです。

また、島の名前を「孤留島(こるとう)」にしようと提案されると、コルトーはなんども「トレ・ビアン」と繰り返したと言われています。

残念ながらコルトーの移住はかないませんでしたが、偉大な音楽家と日本との温かい関係が垣間見られるエピソードです。

アルフレッド・コルトーの奏でるピアノ

1919年、コルトーは自らの理想を実現するために、音楽学校エコール・ノルマール音楽院を創設しました。同音楽院は、フランスで唯一認定された私立音楽院であり、アルテュール・オネゲルやポール・デュカス、オリヴィエ・メシアンといったそうそうたるメンバーが講師を務めています。
コルトーは生涯にわたり音楽に真摯に向き合い、聴衆に語りかけるような美しい演奏を残しました。

まとめ

アルフレッド・コルトーの生涯について解説しました。コルトーは音楽史に名を連ねる偉大なピアニストですが、若い頃は意外にも苦労が多かったようです。コルトーの演奏を聴くと、「コルトーの人生そのもの」が反映されているようにも思えます。
現在でも根強い人気のあるコルトーですが、これまで聴いたことがない方も多いと思いますので、この記事を機会にぜひ彼の演奏に触れてみてください。

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