ピエール・モントゥーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ピエール・モントゥーという指揮者をご存じでしょうか?ピエール・モントゥーは、19世紀後半に生まれ、20世紀のクラシック音楽界に多大な影響を及ぼしたフランス出身の指揮者です。彼の人気は祖国フランスにとどまらず、ロシア、アメリカ、イギリスでもその手腕を発揮し、傾きかけていた数々のオーケストラを再建したことから「オーケストラ・ビルダー」と称されました。

また、同時期に活躍したパブロ・カザルスやアルフレッド・コルトーなどの名演奏家たちと親交を深め、多くの名演を残しています。そこで今回は、ピエール。モントゥーの生涯について解説します。

ピエール・モントゥーの生涯について

ピエール・モントゥーはどのような人生を歩んだのでしょうか。指揮者として活躍する前は、ヴァイオリンやヴィオラの演奏家として活動したようです。

早熟の天才

ピエール・モントゥーは1875年4月4日、フランスのパリに生まれました。父ギュスターブは靴を売る商人で、音楽には無関心だったそうです。

しかし母がピアノ教師をしていたため、モントゥーの才能は母から受け継いだものと言えるでしょう。6歳でヴァイオリンを習い始め、非凡な才能を示したモントゥーは、わずか9歳でパリ高等音楽院への入学が許可されます。音楽院ではヴァイオリン、作曲、音楽理論などを学びその才能を開花させます。

またこの頃、ジェローゾ四重奏団に参加し、フランス国内はもとよりベルギー、スイス、イタリア、ドイツなどを周り、ヨハネス・ブラームスから祝辞を受け深い感銘を受けたといいます。さらに学生時代には、チェリストのパブロ・カザルスやピアニストのアルフレッド・コルトーとも知り合い、演奏旅行に出かけるなど固い友情が結ばれました。

パリ高等音楽院修了後、オペラ=コミック座のコロンヌ管弦楽団団員となったモントゥーは、17年間の長きにわたり第1ヴァイオリニストとして務め、1906年指揮者デビューを飾ります。

指揮者デビュー

31歳で指揮者デビューを飾ったモントゥーは、ベートーヴェンブラームスワーグナーをおもなレパートリーとして人気を博しました。その後1911年からディアギレフ率いるロシア・バレエ団の専属指揮者として招かれると、徐々にモントゥーの名は世界的なものへと広がり始めます。

1913年から1914年のシーズンには、パリ・オペラ座でストラヴィンスキーの『ナイチンゲール』、リムスキー=コルサコフのオペラ『金の鶏』のヨーロッパ初演を指揮するなど、その手腕が高く評価され、人気指揮者として認知されます。

第1次世界大戦に動員されたモントゥーですが、無事に帰国し、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1924-1934年)、ボストン交響楽団(1919-1924年)、パリ交響楽団(1929年の創設時指揮者)を歴任しました。パリ交響楽団ではプロコフィエフの『交響曲第3番』の世界初演を行い大きな話題となりました。その後アメリカへ渡り指揮活動を再開し、アメリカのクラシック音楽界にも多大な貢献を及ぼしています。

また、1934年にはパリにエコール・モントゥー指揮学校を設立し、後進の育成にも積極的に取り組んでいます。この学校は現在も存続しており、アンドレ・プレヴィンやロリン・マゼールといった20世紀後半を代表する世界的指揮者を輩出しています。

第2次世界大戦以降と晩年のモントゥー

またこの年から、オットー・クレンペラーの勧めでサンフランシスコ交響楽団の常任指揮者に就任し、同交響楽団の発展にも寄与しています。そして1952年に退任すると、以降客員世紀者として世界中の聴衆を魅了しました。1961年からはロンドン交響楽団の常任指揮者となり、1963年には来日公演も行っています。

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80代を過ぎても精力的に指揮活動を続けたモントゥーですが、肉体的な老いには抗えませんでした。晩年のモントゥーは、時折気を失って倒れることもあったようで、1962年にはベートーヴェンの『交響曲第5番運命』を演奏中に失神し、イギリスのロイヤル・フィルハーモニー協会からゴールドメダルを授与された後にも倒れてしまいます。

その後1964年4月、イタリア国営放送のオーケストラとの共演がモントゥー最後の演奏となりました。そのときのプログラムはワーグナーの『さまよえるオランダ人』、ベルリオーズの『幻想交響曲』だったそうです。

そして最後の演奏会から2ヶ月後の1964年6月、モントゥーは脳卒中と脳血栓を発症し、7月1日に89歳でこの世を去りました。

ピエール・モントゥーにまつわるエピソード

ピエール・モントゥーにはどのようなエピソードが残されているのでしょうか。ここでは、2つのエピソードについて解説します。

オーケストラ・ビルダーと称される

欧米諸国から指揮の依頼が殺到したモントゥーですが、そんな彼に助けを求めたのがアメリカの「ボストン交響楽団」でした。ボストン交響楽団にはドイツ人音楽家が多数在籍していましたが、第1次世界大戦の余波の影響により帰国を余儀なくされ、同交響楽団は存続の危機にさらされます。さらに、組合闘争もありオーケストラは解散寸前にまで追い込まれていたそうです。

しかし、そのような状況にあったボストン交響楽団を受け入れ、再編に尽力したのがモントゥーでした。そしてたび重なる苦労の末、ボストン交響楽団を再編したモントゥーは、同楽団を世界的なオーケストラへと育てあげます。

この功績により、モントゥーは「オーケストラ・ビルダー」(オーケストラの再編者)と称され、これ以降さらに名声を高めるきっかけとなりました。

ストラヴィンスキー作『春の祭典』の初演を務める

20世紀の音楽界において、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の逸話はご存じの方も多いのではないでしょうか。1913年5月13日、パリのシャンゼリゼ劇場で行われた初演は、一大センセーションを巻き起こしました。

曲が始まると、聴衆からは失笑が起き、次第にヤジが大きくなり、最終的には賛成派と反対派による暴動が起きたと言われています。また客席にはサン=サーンスドビュッシーラヴェルなどのそうそうたるメンバーが控えており、サン=サーンスは冒頭を聴いただけで席を立ち去ったそうです。

その問題作の初演を指揮したのがモントゥーでした。騒動が起きるなか、モントゥーは平然と指揮し、最後まで演奏したと伝えられています。初演は暴動を巻き起こした『春の祭典』ですが、翌1914年の再演では大成功となり、そのときに指揮を担当したのもモントゥーでした。これ以降『春の祭典』はその評価を確定し、現在も人気曲として聴衆に愛されています。

ピエール・モントゥーの指揮風景

モントゥーの若かりし時代、まだブラームスは存命でした。そして晩年のブラームスの前で演奏したことをモントゥーは生涯の誇りとし、この世を去る直前までブラームスの『ドイツ・レクイエム』のスコアを抱きしめていたと言われています。ブラームスの作品を指揮した映像はありませんが、音源は残っていますので、ぜひ聴いてみてください。ブラームスへの愛着が感じられる演奏です。

まとめ

ピエール・モントゥーの生涯について解説しました。ストラヴィンスキー『春の祭典』を聴いたことがある方でも、その初演を指揮したのがピエール・モントゥーだったことを知らない方は多いと思います。そういう意味でも、モントゥーは20世紀のクラシック音楽にとって、重要な人物であったと言えるでしょう。

また、彼はアンドレ・プレヴィンやロリン・マゼールなどの優れた指揮者を育てたことでも知られています。少し古い録音ですが、この記事を機会にぜひモントゥーの世界観に触れてみてください。

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