ポール・デュカスってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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ポール・デュカスは19世紀末から20世紀初頭にかけてフランス音楽界に革命をもたらした作曲家であり、その音楽は今日でも私たちの心に響き続けています。しかし、ポール・デュカスは音楽だけでなく、偉大な音楽教師としても活躍しており、オリヴィエ・メシアンやホアン・ロドリーゴといった優れた音楽家を輩出しました。

では、セザール・フランクと共にフランス近代音楽の礎を築いたポール・デュカスとはどのような人物だったのでしょうか。今回はエピソードを交えながら、その生涯について解説します。

ポール・デュカスの生涯

交響詩『魔法使いの弟子』の作曲者として現在でも高い評価を誇るポール・デュカス。作品数こそ少ないものの、彼が残した音楽、そして教え子たちは、20世紀のクラシック音楽界に大きな足跡を残しています。

幼少期・青年期

ポール・デュカス(以下デュカス)は1865年10月、ユダヤ人の両親の次男としてフランス・パリに生まれました。父ジュールは銀行家で、母ウジェニーは優れたピアニストでした。デュカスは母から音楽的才能を受け継いだものの、母ウジェニーは、弟を出産後間もなくこの世を去ってしまいます。この時デュカスはまだ5歳でした。

パリ高等音楽院入学まで、デュカスがどのような生活を送っていたのか詳しくはわかっていませんが、幼少期から優れた音楽的素質を持っていたことは容易に想像できます(14歳までは音楽的才能を示さなかったという説もあります)。

その後、16歳でパリ高等音楽院に入学。ジョルジュ・マティアスにピアノを、アーネスト・ギローに作曲を師事し、クロード・ドビュッシーとは音楽院の同僚として友情を結ぶこととなりました。

音楽評論家としてデビュー

音楽院においてピアノと作曲に優れた才能を示したデュカスは、1888年、新人作曲家の登竜門である「ローマ賞」に応募し、見事2位を獲得します。
しかしこの結果に本人は納得がいかず、翌1889年にパリ高等音楽院を去ることとなりました。

その後デュカスは、グスタフ・マーラーが指揮したワーグナーの『ニーベルングの指輪』の批評で評論家デビューを果たし、『ラ・ルヴュ・ヘブドマデール』誌、『ミネルヴァ』誌、『ラ・クロニク・デザール』誌など、数々の音楽評論を寄稿しています。そして驚くべきはその批評の数で、1892年に作曲家としてデビューするまでのおよそ3年間の間に、400本を超える評論を執筆したそうです。

作曲家として

評論家として多忙な毎日を送るなか、デュカスは1892年、序曲『ポリュクテ』(ポリュークトとも)で作曲家デビューを果たします。フランスの詩人コルネイユの悲劇を題材にした本作で成功を収めたデュカスは、その後、唯一の交響曲『交響曲ハ長調』を作曲。さらに1897年には交響詩のスタイルを用いた『魔法使いの弟子』を生み出し、作曲家としても不動の人気を獲得するに至ります。

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デュカスが生きた時代は、後期ロマン主義や印象主義、そして12音技法といったさまざまな新しい潮流が生み出された時代でした。デュカスもそれらの影響下にあったものの、古典的形式を生かしつつモダニズムを取り入れた手法は、多くの聴衆から共感を獲得し、セザール・フランクと同様に、フランス音楽を代表する作曲家として地位を確立しました。

優れた音楽教師、そして晩年

音楽評論家・作曲家として名声を博したデュカス。デュカスは晩年において音楽教師としても意欲的に活動し、パリ高等音楽院の作曲科教授やエコール・ノルマールで教鞭をとるなど、後進の音楽家にも力を尽くしています。デュカスの教育方針は、あくまでも伝統を重んじる保守的なものだったようですが、「音楽は心で書くもの」という信念のもと、生徒たちの才能を常に評価する、優れた音楽教師だったそうです。

また、長年の功績によりフランス学士院会員に選出されたデュカスは、名実共にフランスを代表する音楽家として、クラシック音楽の歴史にその名を刻んでいます。しかし学士院会員選出の翌年1935年5月17日、デュカスはフランスパリにて69歳でこの世を去りました。
死因について調べてみましたが、詳しい原因はわかりませんでした。

ポール・デュカスのエピソードは?

孤独を愛し、音楽を心から愛したポール・デュカスのエピソードを簡単に2つ紹介します。

あまりの完璧主義のため、作品のほとんど破棄した

完璧主義者として知られるデュカス。そんなデュカスは生涯でおよそ70曲を作曲したものの、自己批判の強さからその大部分を破棄しています。『交響曲ハ長調』や『魔法使いの弟子』、『ピアノソナタ』などの優れた作品を考えると、もし行き過ぎた自己批判の精神がなければ、作曲家としてさらに評価されていたかもしれません。

クロード・ドビュッシーとの友情

印象主義の旗手クロード・ドビュッシーとパリ高等音楽院時代に出会ったデュカス。批判的精神が強い2人の音楽家は、それ以降生涯にわたり交友を深めます。1920年には、1918年に亡くなったドビュッシーへのオマージュとして、デュカスは『牧神の遥かな嘆き』を捧げ、古い友人の死を悼みました。私生活で何かと問題の多かったドビュッシーですが、デュカスにとっては、かけがえのない友人だったことがわかるエピソードです。

まとめ

今回はフランス音楽界の重鎮ポール・デュカスについて解説しました。デュカスはあまりの完璧主義から、作品が極端に少ないことでも知られていますが、現存する(生き残った)作品は、クラシック音楽史を眺める上で、重要な位置を占めています。
本記事で初めてデュカスを知った方も多いと思いますので、この記事を機会にデュカスの人生、そして作品を聴いてみてはいかがでしょうか。

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