武満徹ってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]20世紀傑作選②〜武満徹:管弦楽曲集

武満徹という作曲家をご存知でしょうか?武満徹は、日本を代表する世界的作曲家であり現代音楽の発展に大きな功績を残しました。映画好きでも知られ、1950年代から1980年代にかけて、さまざまな映画音楽や伴奏を手掛けました。またエッセイや対談集などの著作も多数発表しており、武満徹の思想の深さを伺い知ることができます。そこで今回は、マルチな才能を発揮した武満徹の生涯や性格についてご紹介します。

武満徹の生涯

「弦楽のためのレクイエム」や「ノヴェンバー・ステップス」などの前衛的な試みで、世界から賞賛された武満徹。しかし世界から賞賛されるまでの道のりは、決して平坦ではなかったようです。武満徹の誕生から晩年までを年代ごとに振り返ってみたいと思います。

幼少期から20歳頃まで

武満徹は1930年10月8日、東京都に生まれました。小学生時代は叔父の家で過ごし、叔母はお琴の師範だったそうです。この影響が後の作品に大きな影響を及ぼしたのは、いうまでもありません。当時は戦争中であったため、中学に進学してからは陸軍で勤労動員として働いていました。戦後になると、武満はラジオから流れるクラシック音楽に興味を持ち、ドビュッシーやラヴェル、メシアンなどのフランス音楽を聞いたり、ジャズを聞くために横浜のアメリカ軍キャンプでアルバイトをしたりしました。

音楽を学びたい意欲にかられた武満は、ほぼ独学で作曲を学び、中学卒業後に東京音楽学校(現東京芸術大学)を受験しました。しかし、試験でたまたま出会った別の受験生と意気投合し、2日目のテストには行かずに映画を見に行ってしまったそうです。

デビューから30歳頃まで

武満は、作曲の先生であった清瀬保二が開いた発表会で「2つのレント」を発表し、作曲家デビューをしました。しかし作品に対する評価は厳しいもので、新聞では「音楽以前である」と酷評され、武満は大きなショックを受けたそうです。

その後、詩人の瀧口修造との出会いにより、作曲家としての人生を大きく躍進させることになります。武満は、瀧口修造が主催していた芸術グループに所属し、クラシック音楽のみならず電子音楽にも関心を持ち、前衛的な作品作りに没頭することになったのです。

1957年には武満の代表作となる「弦楽のためのレクイエム」を発表。発表当時は認められませんでしたが、のちに作曲家ストラビンスキーの絶賛によって注目を集めるようになりました。翌年1958年には作曲コンクールで入賞し、生涯の友人となる指揮者の小澤征爾と出会うきっかけになりました。1960年代初頭になると、武満の名が一気に広がります。1964年、NHK交響楽団より依頼されて作曲した「テクスチュアズ」が、ユネスコ国際作曲家会議にて日本人初のグランプリを受賞。この受賞が武満の名声をさらに高めることとなったのです。

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1960年代~1980年頃まで

武満は大の映画好きで知られ、ロシアの映画監督タルコフスキーが亡くなった時には、追悼のために「ノスタルジア」という弦楽合奏曲を作曲したほどでした。また、自身も多くの映画にたずさわり、1960年代にはおよそ50作品の映画音楽を作曲しています。

映画音楽に関わると同時に、武満はさらに実験的な作曲にも取り組みました。その1つが、琵琶と尺八を使った2重奏曲「エクリプス」です。この「エクリプス」が小澤征爾を経由して世界的指揮者であったレナード・バーンスタインに伝わり、武満の代表作「ノヴェンバー・ステップス」が誕生しました。
1970年代に入ると、武満は大阪万博での音楽監督を務めたり、アメリカの大学に客員教授として招かれるなど、活躍の場はさらに広がりました。

1980年代~亡くなるまで

1980年代になると、武満の音楽が演奏される機会が増える一方、かつての実験的作品は少なくなり、美しい調和のある音楽へと回帰しました。これに対しては批判もあったものの、晩年は穏やかでメロディーラインの美しい曲が多いようです。また、人生初のオペラ「マドルガーダ」(邦題「夜明け前)」の作曲に挑みましたが、ついに完成することはありませんでした。

1995年、2カ所にガンが見つかり、同時に肺炎も患っていたことから、長期の入院を余儀なくされました。一時的に退院し「森のなかで」「エア」などを作曲したのち、翌年1996年2月20日に亡くなりました。享年65歳でした。

性格や亡くなった原因

性格

若い頃は貧しかったためピアノを買えなかった武満。町でピアノの音を聞くとその家へ行ってピアノを弾かせてもらっていたそうです。本人は「断られたことがない」と言っていたようですが、実際には何度も同じ人を訪ねて断られていたとのこと。いずれにしても、武満の音楽への執念と愛情が伝わるエピソードです。

亡くなった原因

1995年、膀胱と首のリンパ腺にガンが見つかりました。武満は、間質性肺炎を患っていたこともあり、長期入院をしていました。その後一時的に帰宅できましたが、体調の悪化に伴い、翌年1996年の冬、65歳でこの世を去ったのでした。

武満は、海外の大学で客員教授を務めたり、その業績から数々の表彰を受けるなど、まさに日本を代表する作曲家の1人です。晩年に監修した東京オペラシティコンサートホールは、武満の功績を讃えて「タケミツ・メモリアル」と名付けられました。

まとめ

今回は武満徹の生涯を紹介しました。初めて武満徹の音楽を聞く方は、少し驚くかもしれません。しかしその音楽の中には、武満徹の心の繊細さや、音楽や自然に対する愛情が深く表現されています。これを機会に、ぜひ武満徹の世界に触れてみてはいかがでしょうか。

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