アレクサンドル・スクリャービンってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Scriabin Edition

アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(1872-1915)は、ロシアを代表する作曲家です。学生時代はあのラフマニノフと共に学び、共に良きライバルとして切磋琢磨していました。作曲家としてはいち早く調整離脱という前衛的な作曲に果敢に挑戦したことで知られています。
今回は、スクリャービンの生涯、エピソードなどについてご紹介します。

スクリャービンの生涯

スクリャービンは幼少期から音楽の英才教育を受けて育ったわけではありませんでした。しかし元々音楽的な才能には秀で、作曲を学ぶ前から即興を好んで演奏していたそうです。

モスクワの貴族家庭に生まれる

1872年、スクリャービンは外交官の父とピアニストの母のもとに生まれます。母親はレシェティツキに師事し、ペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストでしたが、お産が原因でスクリャービンが1歳の時にこの世を去っています。

スクリャービン家は代々モスクワに住む、爵位のない貴族一族でした。多くの軍人を輩出する名門一家で知られており、スクリャービン本人もその流れをくんでモスクワ第2陸軍幼年学校に通います。しかし元々身体が丈夫ではなかったスクリャービンは5年で学校を辞め、モスクワ音楽院に入学します。モスクワ音楽院入学前は、11歳からピアノをコニュースに師事、12歳からは師をズヴェーレフにかえ、13歳からは作曲の勉強もタネーエフの下で始めていました。

モスクワ音楽院時代

モスクワ音楽院の同学年にはセルゲイ・ラフマニノフがいました。双方ピアノ演奏の技術に優れていたため、早くからライバルとして切磋琢磨していました。

ラフマニノフに比べてはるかに手が小さいスクリャービンは、手の小ささを技量でカバーしようと過度に練習しすぎ、右手を痛めてしまいます。右手が使えない間は、左手の練習を増やし、「左手のコサック」と呼ばれるほど左手の技術を磨きます。この経験は、以後のスクリャービンのピアノ曲で左手が高度な技巧を発揮する一因となります。

卒業試験では最も優秀な生徒に金メダルが贈られますが、この世代は優劣付け難い秀でた生徒が二人いたため、大金メダルと小金メダルの二つが贈られることになります。ピアノの卒試で特に優秀だったラフマニノフが大金メダルを、辛くもラフマニノフには及ばなかったスクリャービンが小金メダルを得ました。当時、ピアノはスクリャービン、作曲はラフマニノフと言われていた中で2位に甘んじたスクリャービンはたいそう悔しい思いをしたそうです。
因みに、作曲科の方は師のアレンスキーと衝突したことが原因で卒業すらできませんでした。ラフマニノフはこちらもトップの成績で卒業しています。

作曲家としての一歩

音楽院を卒業後はしばらくピアニストとして活動しますが、ペテルブルグの有力な楽譜出版商ベリャエフに認められたのを機に作曲活動に精を出すようになります。ベリャエフは金銭的にもスクリャービンをサポートし、西ヨーロッパでの演奏会を企画するなど、スクリャービンの強力なサポーターとして働きかけました。しかし、1897年にスクリャービンがピアニストのヴェラ・イヴァノヴナと電撃結婚したことはベリャエフの逆鱗に触れ、金銭的援助が絶たれてしまいます。そのため、スクリャービンは1898年から5年ほど母校の音楽院でピアノ教授として教鞭を取ります。非常に忍耐強い、良い先生という評判で、早期の退職は生徒たちから大変惜しまれたそうです。
この時期に書かれたものは「ピアノ・ソナタ第3番」や「交響曲第1番」など、比較的スケールの大きなものになります。より作曲活動に専念したいという思いから教壇を下りたそうです。

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新たな恋とロシア象徴主義との出会い

モスクワ音楽院で教鞭を取っていた頃、弟子と恋愛関係に発展します。それがタチヤーナ・シュレーツェルで、スクリャービンは前妻とその間の子を捨てて、スイスでタチヤーナとの生活をスタートさせるに至ります。二人は子供にも恵まれ、幸せな家庭を築けたようです。

時同じくしてスクリャービンはロシア象徴主義の思想に触れ、ニーチェやV.S. ソロヴィヨフの思想にも傾倒していきます。音楽ではワーグナーの音楽にすっかり心酔していたため、この時期に書かれたものはワーグナー的要素が多く取り入れられています。

1905年にはブラヴァツキー夫人の主唱する神智学に触れ、神秘主義的傾向を深めます。熱心な信者になったスクリャービンは1908年に神智学協会のブリュッセル支部会員にもなっています。神智学の影響は彼の曲にも影響を与え、ワーグナー的音楽からさらに神との合一を図ろうとする、神秘和音の多様へと発展していきました。

すべての芸術、自然との融合を目指して

1908年にはずっとお世話になってきたベリャエフ社と決別します。そしてロシアに帰国し、ロシア象徴主義の詩人や批評家などと熱心な交流を持ちます。
スクリャービンの作曲区分としては後期に分類されるこの時期、調性離脱を確固たるものとし、神秘主義的な芸術を確立するに至ります。その背景には、神智学、ロシア象徴主義の思想の影響があり、スクリャービンはすべての芸術と自然、音楽を融合させ、宇宙規模での進化、神との合一を目指して作曲を進めていました。しかし、そのあまりにも実験的な音楽、技法、ビジュアルは当時の社会では受け入れられませんでした。

急な死の訪れ

スクリャービンは元々身体が弱かったため、健康にはかなり気を遣っていました。しかし、唇を虫に刺されたときはさほど大事ではないと注意を怠ったのでしょう。刺されたところから菌が入って化膿し、結果敗血症を起こして43歳という若さで急逝しました。

スクリャービンの葬儀

43歳で逝ってしまった、ライバルのあまりにも突然の死に、さすがのラフマニノフもショックを隠せずにいました。神秘主義的な不可思議な音楽に走っていた級友を理解できずにいたラフマニノフですが、友人の死に際して「今後はスクリャービンの音楽も演奏する」と心に決め、葬儀でも彼の曲を演奏しました。
ラフマニノフとスクリャービンは不仲であったというようなことも言われますが、ラフマニノフは葬儀でスクリャービンの棺も担いでいます。本当に不仲であれば葬儀にもきっと出席しなかったでしょう。
周りから常に比べられ続けた二人は、ライバルということで溝を深めた部分もあったでしょう。しかし、本当は良きライバル、同志として心の支えになっていた部分少なからずあったことが、このエピソードからうかがえ知れます。

まとめ

スクリャービンはたった43年間しか生きていませんでしたが、その間に作曲面では様々な実験的作曲に挑戦し、早くも調性離脱という域に達するに至りました。時代が時代で、まっとうな評価は得られませんでしたが、作曲面で後世に残した実績とインパクトはラフマニノフのものよりも大きいです。
ロシア象徴主義と出会ってから、作風が大きく変化していくスクリャービンの音楽ですが、学生時代の穏やかな音楽と聞き比べてみるのも面白いです。気になる方は是非CDやYouTubeで聞いてみてください。

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