アレクサンドル・ボロディンってどんな人?その生涯や性格は?死因は?

出典:[amazon]ボロディン:交響曲全集、だったん人の踊り 他

アレクサンドル・ボロディン(以下ボロディン)は、「展覧会の絵」で有名なムソルグスキーリムスキー・コルサコフとともに活動した「ロシア5人組」の一人です。ボロディンは「イーゴリ公」などの優れた作品を残しましたが、本業は化学者という異色の人物であり、化学の分野でも偉大な業績を残しました。音楽家であり化学者でもあったボロディンとはどのような人物なのでしょうか。今回は多才な作曲家ボロディンの生涯について解説します。

アレクサンドル・ボロディンの生涯


ボロディンの生涯とはどのようなものだったのでしょうか。音楽的功績もさることながら、化学者としての業績も歴史に名を残すほどの人物だったようです。

生い立ち

ボロディンは1833年、ロシア帝国のサンクトペテルブルクに生まれました。しかしボロディンは非嫡出子(※1)であったため、父のゲデヴァニシヴィリはボロディンの戸籍登録を行わず、農奴であったポリフィリ・ボロディンに息子を預けます。

それでもボロディンは苦労することなく育ち、幼い頃からピアノやフルート、チェロなどを楽しむ少年でした。また、音楽と同じく化学にも強い関心を抱き、後年化学の分野でも大きな功績を残すことになります。学生時代のボロディンは室内楽に興味があったようで、仲間たちと演奏を楽しんだと言われています。

頭脳明晰だったボロディンはサンクトペテルブルクの医学部へ進学し、最優秀の成績を収めたそうです。医学部を卒業後は陸軍の病院へ勤め、その後ヨーロッパへと長期研修に出向きます。スイス、フランス、イタリア(※2)などで研修したボロディンは、26歳の頃にドイツのハイデルベルク大学に入学し、元素周期表で有名なメンデレーエフに師事しさらに学問を続けます。この頃に、のちに「ロシア5人組」として合流するムソルグスキーに出会っていたそうです。また、ボロディンは留学中に結核に罹りサナトリウムに入りましたが、そこでエカテリーナと出会い結婚しました。

留学から帰ったボロディンはサンクトペテルベルク医学部の研究員として迎えられ、やがて教授に昇進し、ロシアの医学や化学の発展に奔走します。

化学者として、作曲家として

化学者として「アルドール反応」を発見し偉大な功績を残したボロディンは、音楽でもその才能を発揮します。1863年、作曲家バラキレフと出会い本格的に作曲を学び始めたボロディンは、1869年に「交響曲第1番」を発表し音楽家デビューします。そしてバラキレフの紹介で出会ったのが、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフであり、これにボロディンを含めた「ロシアの5人組」が結成されます。

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「交響曲第1番」を発表後、「交響曲第2番」「交響曲第3番」を手がけますが、学者としての本業に忙殺され、作品のいくつかは未完成のまま残されてしまいました。1869年、「5人組」の理論的指導者だったスタソフの勧めで、ボロディンはロシアの叙事詩「イーゴリ公遠征記」を題材にした「イーゴリ公」に着手し、その制作に没頭します。またこの頃、5人組のメンバーでオペラ「ムラダ」を創作するプロジェクトを企画し、ボロディンは第4幕を担当しましたが、この企画は失敗に終わってしまいました(ボロディンは「ムラダ」で作曲した作品を「イーゴリ公」に使用しています)。

1880年になると、フランツ・リストの手引きによりボロディンの「交響曲第1番」がワイマールで公開され、ボロディンの名前がヨーロッパにも広まるようになりました。あまり知られていないですが、この当時、ロシアの交響曲といえばチャイコフスキーとボロディンの作品だったそうです。

※1、非嫡出子(ひちゃくしゅつし)とは法律上婚姻関係のない男女に生まれた子供です。
※2、イタリアのピサ大学に在籍中、ボロディン臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定置法を発見しています。

晩年

晩年のボロディンは、その活動のほとんどを学業に費やしていました。それによりムソルグスキーからは「日曜音楽家」などと揶揄されていましたが、ロシアの化学界に対するボロディンの貢献はとても大きなものでした。なかでもボロディンは、医科大学に女子の産科過程を作ることに尽力し、これは当時のロシアにとっては画期的な制度だと言われています。
こうした本業での忙しさもあったため、代表作「イーゴリ公」は未完成のままとなりましたが、「5人組」のメンバーであるリムスキー・コルサコフとその弟子のグラズノフによって後年完成されています。

性格を表すエピソードなど

幼い頃からとてもロマンティックだったボロディン。9歳の頃、エリエナという年上の少女に思いを込めて連弾用のポルカを送っています。また、愛妻家だったボロディンは、代表作「弦楽4重奏曲第2番」を妻への愛の印として捧げています。

死因は?

謝肉祭の期間中、ボロディンは友人たちとパーティーを楽しんでいたそうです。しかし突然青ざめ、その場に倒れこんでしまいます。死因は動脈瘤の破裂でした。53歳で亡くなったボロディンは、アレクサンドル・ネフスキー修道院のチフヴィン墓地で「5人組」の仲間とともに静かに眠っています。

まとめ

いかがでしたか?今回はボロディンの生涯についてご紹介しました。ロシア国民楽派を代表するボロディンの作品は、チャイコフスキーよりも先にヨーロッパに紹介されたそうです。
その作風はオリエンタル気質にあふれ、抒情的な雰囲気に溢れています。あまり聴く機会がないかもしれませんが、これを機会にぜひボロディンの作品を聴いてみてください。

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