ヨハン・パッヘルベルってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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誰もが一度は聞いたことのある「パッヘルベルのカノン」。作曲からおよそ300年以上を経た現代でもその美しいメロディーは輝き続けており、聴く人の心を癒し続けています。

しかし実は「パッヘルベルのカノン」がここまで有名になったのは、20世紀後半からであることを知らない人は意外に多いのではないでしょうか。さらに、パッヘルベル自身がどのような人物であったのかも、語られることは多くありません。

そこで今回は、「作品は有名だけど謎に包まれた人物」パッヘルベルの生涯をエピソードを交えつつ紹介します。

ヨハン・パッヘルベルの生涯について

バロック中期において重要な役割を果たしたパッヘルベル。バッハにも大きな影響を与えた彼は、一体どのような人生を辿ったのでしょうか。調べてみると、音楽はもちろんのこと、学問にも精通していた大変な文化人だったようです。

才能溢れる幼少時代

ヨハン・パッヘルベルは、1653年にドイツのニュルンベルクに生まれました。時代的にピンとこない方も多いかもしれませんが、おおよそバッハが生まれる30年前、また、モーツァルトが生まれる100年ほど前の人物です。

少年時代から学問や音楽に才能を示したパッヘルベルは、優れた音楽教師ハインリヒ・シュヴェンマーに師事。その後1669年、16歳でアルトドルフ大学に進学します。また同年、聖ロレンツォ教会のオルガン奏者に任命され、学問と音楽の両方においてその才能を発揮します。

青年時代のパッヘルベルの人生を調べてみると、この頃は音楽家というよりは学問に熱心に取り組んでいたようです。そんな志をもったパッヘルベルでしたが、経済的理由により1年で大学を退学してしまいます。

その後学問を修めるために、レーゲンスブルクのギムナジウムの奨学生となり、優秀な成績でギムナジウムを修了します。伝えられているところによると、パッヘルベルは学問的にも優れた才能を示したらしく、その才能は同校の教授たちも舌を巻くほどだったそうです。

音楽家として活躍

1670年代初頭からウィーンに滞在したパッヘルベル。同地において聖シュテファン大聖堂のオルガニストに就任し、音楽家としての人生を歩み始めます。パッヘルベルが滞在した1670年代のウィーンは、ハプスブルク帝国が中心であり、音楽といえばもっぱらイタリア音楽が主流でした。

そのような影響から、パッヘルベルも自然に南ドイツやイタリア音楽に影響を受けたことは言うまでもありません。また当時のウィーンには、ヨハン・ヤーコブ・フローベルガーやヨハン・カスパール・ケルルといった、初期バロック音楽を代表する作曲家たちが多数滞在しており、彼らとの出会いが、のちのパッヘルベルの作品に大きな影響をもたらしました。

その後1677年、パッヘルベルはドイツに戻り、アイゼナハの宮廷オルガニストを務めています。アイゼナハの滞在は1年間という短い期間だったものの、この間に大バッハの父ヨハン・アンプロジウス・バッハと知遇を得たことは、パッヘルベルの人生の大きな転換点と言えるでしょう。

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アイゼナハを後にしたパッヘルベルは、1678年からエアフルトのプレディガー教会のオルガン奏者に就任します。各地を転々としたパッヘルベルにしては珍しく、エアフルトには12年間滞在し、数々のオルガン作品を作曲しました。この地で残したパッヘルベルのオルガン作品(『コラール前奏曲』など)は、のちのバロック音楽の発展に大きく寄与しています(「コラール」とはルター派教会で歌われる讃美歌のことです)。

晩年

1690年以降、シュトゥットガルトの宮廷音楽家(2年間)、ゴーダ市のオルガン奏者(2年間)を歴任し、パッヘルベルは1695年からニュルンベルクの聖ゼーバルト教会のオルガン奏者となります。この間、オックスフォード大学やシュトゥットガルトなどから求人を受けたものの、契約条件が本人の意向と合わなかったのか、それらを断っています。

そして活動拠点をニュルンベルクへ移したパッヘルベルは、音楽家としての生涯をこの地で終えることになりました。また、ニュルンベルクでは「マニフィカト・フーガ」や室内楽曲『音楽の喜び』、鍵盤楽器のための『アポロンの六弦琴』といったさまざまな作品を残しています。

教会オルガニスト、作曲家として偉大な功績を残したパッヘルベルでしたが、1706年、52歳でこの世を去りました。死因について調べましたが、詳しいことはわかりませんでした。遺体は最後の地、ニュルンベルクの聖ロッフス墓地に埋葬されています。

パッヘルベルにまつわるエピソードは?

パッヘルベルのエピソードについて紹介します。バッハ家との出会いが、彼の人生に大きな変化をもたらしました。

バッハ家との関係

アイゼナハ滞在中、パッヘルベルがバッハの父アンブロジウスと出会ったことは上述しました。この出会いをきっかけにパッヘルベルはバッハ家との交流を深め、アンブロジウスの娘ユーディタの名付け親になったり、子供達の家庭教師まで務めることになります。

また、大バッハの長兄クリストフの結婚の際には、そのお祝いとして作品を提供しており、この作品こそが、現在知られる「カノン」だったのではないかと言われています。詳しい真偽のほどは分かっていないようですが、いずれにしてもパッヘルベルが学問と芸術に秀でていたことがわかるエピソードですね。

パッヘルベルがバッハ家と関わりがあったからこそ、後の大バッハが確立されたといっても良いかもしれません。

まとめ

今回は、「カノン」の作者パッヘルベルの生涯について解説しました。17世紀初頭に活躍した人物であるため、残されている文献も多くありませんが、パッヘルベルは学問・芸術において優れた人物だったようです。

また、「音楽の父」J.Sバッハに大きな影響を与えたことに驚かれた方も多いのではないでしょうか。近年、パッヘルベルの作品は見直されつつあり、新たな録音も多数販売されています。ぜひこの記事を機会に「カノン以外」の作品にも触れてみてください。

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