フランツ・レハールってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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フランツ・レハールは19世紀後半の旧オーストリア=ハンガリー帝国に生まれた、オーストリアを代表する作曲家です。日本ではあまり馴染みのない作曲家かもしれませんが、クラシックの本場であるヨーロッパでは、オペラ作曲家として現在も人気のある作曲家として知られています。彼が生み出したオペラ『メリー・ウィドウ』はその人気ゆえに映画化され、そのタイトルを冠したカクテルまで生み出されました。

そんな知る人ぞ知る作曲家フランツ・レハールとはどのような人物なのでしょうか。今回は彼の生涯や人物像を紹介します。

フランツ・レハールの生涯

19世紀後半に生まれ20世紀半ばまで活躍したレハールはどのような人生を送ったのでしょうか。

幼少期

フランツ・レハール(以下レハール)は、1870年4月30日、オーストリア=ハンガリー帝国に生まれました。父が陸軍軍楽隊のバンドマスターを務めていた影響で、幼いレハールは音楽に囲まれた環境に育ったようです。レハールの祖先は18世紀初頭まで遡る由緒ある家柄で、彼の曽祖父も作曲家として活躍していたと言われています。父とともにブラチスラヴァやエーデンブルク、カールスブルクといった当時のハンガリーの諸都市を転々とした幼い頃のレハールは、各地で音楽を吸収しながら、その才能を開花させていきます。レハールの作品には繊細で美しいメロディーが多く、後年はメロディー・メーカーとして高い評価を獲得していますが、その源は幼少期に各地を訪れた経験からきているのかもしれません。

音楽院へ進学

成長したレハールは本格的に音楽を学ぶため、プラハ音楽院へ進学。プラハ音楽院ではアントニン・ベネウィッツにヴァイオリンを師事し、その卓越した才能が認められると、アントニン・ドヴォルザークから作曲を学ぶよう勧められます。当時のドヴォルザークといえば、すでに世界的な作曲家としての地位を確立しており、この推薦がレハールにとって大きな転換期となったことが想像できます。しかし残念なことに、当時のプラハ音楽院の規則では、演奏と作曲を同時に履修することが認められていなかったため、ヴァイオリオンで学位をとりつつ、作曲は独学で学ぶ道を選んだそうです。

1888年に音楽院を卒業したレハール。卒業後は父が所属する陸軍軍楽隊にアシスタントとして加わり、2年後にバンドマスターに就任すると、当時のオーストリア=ハンガリー軍における最年少バンドマスターとして大きな話題を呼びました。そして陸軍退役後は海軍へ入隊し、1894年から1896年までカペルマスター(楽長)を務めています。海軍在籍中は作曲にも意欲的に取り組み、最初のオペラ『ククーシュカ』を作曲。この作品が好評となり、ライプツィヒで初演を迎えたのち、カペルマスターの職から離れることとなりました。

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オペラ作曲家として成功

一度は海軍軍楽隊を辞したレハールですが、まもなく復帰し、1898年にブダペスト、1899年から1902年まではウィーンに滞在し、ウィーン・アン・デア・ウィーン劇場の指揮者に抜擢されます。歴史ある劇場にて指揮者デビューを果たしたレハールですが、この時期のレハールは作曲にも力を注いでおり、オペラ『ウィーン・フラウエン』が好評をきっかけに、その人気が徐々に高まり始めます。そして1905年に発表したオペレッタ『メリー・ウィドウ』の爆発的ヒットにより、レハールの地位と名声は揺るぎないものとなったのでした。
この作品をきっかけに、一躍人気作曲家の仲間入りを果たしたレハール。以降『パガニーニ』や『ロシアの皇太子』といったオペレッタを次々と生み出し、オペレッタにおける新時代を確立するに至ります。第2次世界大戦時にはナチスドイツとの関係により一時期不安定な時期を過ごしたものの、無事に難を逃れ、1946年からは妻ソフィとともにスイスへ向かい晩年を過ごしました

レハールの晩年

晩年のレハールはスイスのチューリッヒで作曲活動に専念し、新しいプロジェクトやレコーディング作成に携わっています。しかしそんな矢先の1947年、妻ソフィーが心臓病を患ったことをきっかけに、レハール本人も次第に体調を崩すようになりました。そして翌年1948年、ウィーンのザルツブルクに戻ったレハールは遺言を残してから間もなく、78歳で
帰らぬ人となりました。葬儀の際にはオーストリア中が喪に服し、全土にわたり喪章が掲げられたと言われています。

フランツ・レハールのエピソードは?

オペレッタ作曲家として人気を博したレハールのエピソードについて1つ紹介します。

稀代の作曲家のお墨付きを得る

耳に馴染みやすい甘美なメロディーで人気を獲得したレハール。彼が作曲したアリアやワルツは、現在でも演奏機会の多い作品として親しまれています。そんな彼がメロディー・メーカーとなったのはドヴォルザークとの出会いがきっかけでした。ドヴォルザークといえば、ブラームスでさえ嫉妬を覚えるほどのメロディー・メーカー。そしてドヴォルザークとの出会いにより、レハールは一気に作曲家としての才能を自覚したのは間違いありません。
もしドヴォルザークの推薦がなければ、レハールの作品は生まれていなかったといっても過言ではないでしょう。

まとめ

今回はオペラの分野で人気を博したフランツ・レハールについて解説しました。ヨーロッパではヨハン・シュトラウス以来のオペレッタ黄金時代を築き、彼が生み出した作品は「銀の時代」と呼ばれるほど、センセーショナルな時代転換をもたらしました。
あまり日本では聴く機会のない作曲家かもしれませんが、この記事をきっかけにレハールの世界観に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。

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