カロル・シマノフスキーってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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カロル・シマノフスキー(1882-1937)は20世紀初頭に活躍し、民俗音楽やジャズ、現代音楽などの要素を取り入れた独自の作風で知られる、ポーランド出身の作曲家です。また指揮者としても活動し、自作の指揮を行うことが多かったため、その作品は彼自身の解釈によって演奏されることもあったと言われています。

生涯で4つの交響曲を作曲したほか、オペラ『ロジェ王』は現代においても演奏機会の多い人気作品です。では、激動の時代を生き抜いたシマノフスキーとは、どのような人物だったのでしょうか。今回はエピソードを交えつつ、シマノフスキーの生涯を解説します。

カロル・シマノフスキーの生涯について

シマノフスキーはどのような人生を歩んだのでしょうか。彼が生きた時代は、第1次世界大戦という世界的悲劇の真っ只中にありました。

裕福な家庭に生まれる

カロル・シマノフスキーは1882年、ポーランドの貴族(シュラフタ)の家系に生まれました。両親とも音楽好きの一家だったようで、家に小さなサロンを開いて音楽に親しんでいたと言います。

4歳で足に大怪我を負ったシマノフスキーは、学校に通えなかったものの、その分家庭で音楽教育を受け、才能を徐々に開花させて行きます。そしてわずか10歳で音楽学校に入学した彼は、20世紀の始めにワルシャワ音楽院(現フレデリック・ショパン音楽大学)に入学し、本格的な音楽教育を受けるようになります。

ヨーロッパ各地で活躍

ワルシャワ音楽院卒業後、その卓越した才能は早くから注目を集め、1909年に作曲した「交響曲第2番」は作曲コンクール1位を獲得しました。

20世紀初頭のシマノフスキーは、イタリアやウィーンなどのヨーロッパ各地で見聞を広め、イーゴリ・ストラヴィンスキーや印象派の音楽に大きな影響を受けています。また、この頃のシマノフスキーは、とりわけベーラ・バルトークの作品を手本にしたと言います。

再びワルシャワに帰国したシマノフスキーは、作曲家としての名声をさらに高め、その作品は広くアメリカでも上演されるようになりました。1920年代のシマノフスキーは、まさに才能の全盛期であり、ザルツブルグ音楽祭において『ピアノエチュード』、『ヴァイオリン協奏曲第1番』『弦楽四重奏曲』などの作品を次々と世に送り出しています。
また、現在でも人気のオペラ『ロジェ王』の初演が行われたのも、1920年代半ばのことでした。

ワルシャワ音楽院院長と晩年

そして数々の世界的功績が認められたシマノフスキーは、母校であるワルシャワ音楽院の院長に就任します。経営者としての手腕は優れたものではなかったようですが、教育者として多くの優秀な若者たちを育て、世に送り出しました。

1930年に音楽院を退職したシマノフスキーは、結核を患いながらもポーランドのタトラ山脈にあるザコパネ(現在もポーランド有数のリゾート地)に居を構え、ポーランド民族音楽を取り入れた作品作りに没頭します。

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しかし1936年に病状が悪化し、シマノフスキーはフランスのグラースやカンヌ、ローザンヌなどの療養所で治療を受けるものの、回復には至らず、1937年にローザンヌの療養所で息を引き取りました。享年54歳。遺体は祖国ポーランドに移送され、もっとも優れた人物だけに埋葬が許される、クラフフに安置されています。

シマノフスキーのエピソードは?

近代ポーランドを代表する作曲家シマノフスキーにはどのようなエピソードがあるのでしょうか。彼のロマン主義的傾向は、どうやら幼少期から培われていたようです。

小説も書くロマンティスト

シマノフスキーの初期の作風は、ショパンやR・シュトラウスシューマンといったロマン派の作曲家に大きな影響を受けたものでした。そしてどうやら、シマノフスキーのロマン主義的傾向は、幼少期から芽生えていたようです。

作曲家・音楽指導者として尽力した彼は、文学や哲学、イスラム文化などにも精通する文化人でもありました。なかでも文学に強い関心を抱き、後年のオペラや歌曲などにその素養が活かされています。

シマノフスキー本人も小説を執筆しており、10代の頃に書いた『エフェボス』というタイトルの作品を、恋人だったボリス・コクノという人物に献呈したそうです。恋人へのプレゼントに自作の小説を送るとは、なんともロマンチックな青年ですね。

ポーランド現代音楽の父

作曲家としてデビューしたシマノフスキー。その後、彼はアルトゥール・ルービンシュタインらとともに、音楽家グループ「若きポーランド」を結成します。
その目的はポーランドの音楽をヨーロッパ各地に広めることであり、シマノフスキーはその中心メンバーとして活動しました。

やがてワルシャワ音楽院(現フレデリック・ショパン音楽大学)の院長に就任したシマノフスキーは、後進の音楽家の育成に取り組みます。20世紀後期のポーランドを代表する作曲家ヴィトルト・ルトスワフスキもシマノフスキーの教え子の一人です。

こうした偉大な経歴により、シマノフスキーは「ポーランド現代音楽の父」と称されており、現代においても多くの人々に親しまれています。

ショパンが「ピアノの詩人」と言われるように、シマノフスキーは「ポーランド現代音楽の父」であることも、これを機会にぜひ覚えておいてください。

まとめ

今回はカロル・シマノフスキーの生涯について紹介しました。裕福な家庭に生まれながらも、激動の時代に飲み込まれたシマノフスキー。彼の繊細で巧妙な作風は、そんな時代を反映してのことだったのかもしれません。

ポーランドの作曲家といえば、ショパンばかりが注目されがちですが、この記事をきっかけに、ぜひシマノフスキーの作品も聴いてみてください。きっと、新しいポーランド作品の魅力に出会えると思いますよ。

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