出典:[amazon]エリック・サティ生誕150周年企画 サティ ピアノ作品集
エリック・サティはフランスを代表する作曲家の1人です。しかし、伝統的な作曲方法から外れ、行動も奇抜であったことから、サティはしばしば「音楽の異端児」や「変わり者」と評されました。「作曲家には変人が多い」と言われていますが、サティは突出した人物だったようです。そんなサティですが、誰でも一度は聞いたことのある有名曲をいくつも作曲しており、また「無調音楽」の先駆けとして、ラヴェルやストラヴィンスキーなどの後世の音楽家に大きな影響を与えた人物です。そこで今回は、エリック・サティの生涯やエピソードについてご紹介します。
サティの生涯
エリック・サティは、1866年フランスの北部のオンフルールに生まれました。父は船舶解体業を営み、母はスコットランド人でした。4歳になると、父親の都合でパリに移住しますが、まもなくして母が他界してしまいます。8歳になりオルガンに興味を持ち始めたサティは、オルガンを聞くためだけに教会に通ったそうです。そして教会音楽(主にグレゴリオ聖歌)への関心は、生涯続くこととなりました。
13歳でパリ国立高等音楽院に通い始め、ピアノや作曲を学んだサティでしたが、馴染めなかったのか「退屈だ」という理由で学校を退学してしまいます。このころのサティは「パリ音楽院でもっとも怠惰な学生」というレッテルを貼られたそうです。
21歳でパリ音楽院を退学したサティは、生活のためにカフェ「黒猫」(ル・シャ・ノワール)でピアノ伴奏の仕事を始めます。そこでは多くの芸術家に出会い、交流を深めました。
また、サティのもっとも有名な作品「ジムノペディ」が作曲されたのもこの時期です。
30代からはパリのモンマルトルを離れ、アルクイユへ移り住みシャンソン歌手のピアノ伴奏や、作曲をして生涯を過ごしました。サティはシャンソンも多く作曲しており、有名な「ジュ・トゥ・ヴ」(お前が欲しい)はシャンソン歌手のポーレット・ダルティのために作曲された作品です。
20世紀になり名声が広がったサティは、作家のジャン・コクトーや画家のピカソらとともに、バレエ「パレード」の制作に取りかかるなど、積極的に制作活動に励むようになりました。また1920年にはカフェやレストランで流れるような、誰の気にも留められない「家具の音楽」を提唱しました。この概念は、現在のイージーリスニングやBGMのルーツと言われています。
ダダイズムなどの芸術家たちとも交流を持ち、多くの活動に参加したサティでしたが、日頃のアルコールの飲み過ぎがたたり、1925年肝硬変のためこの世を去りました。生涯にわたって貧しい生活を送ったサティでしたが、それはもしかしたら、サティ自身が意図してそのような生活を選んでいたのかもしれません。
エピソード
「異端児」と言われていたサティには、面白いエピソードがいくつもあります。今回はその中からいくつかご紹介します。どれもサティの変人さがわかるエピソードです。
恋人に半年間で300通の手紙を送る
サティが26歳の頃、2歳年上の画家シュザンヌ・ヴァラドンを熱烈に愛します。ヴァラドンとは、わずか半年で破局を迎えてしまいましたが、サティが半年の間に送った手紙の数は何と300通にも達していたそうです。ここまでくると愛情が深いというか、強い執着をも感じさせます。ちなみに、シュザンヌ・ヴァラドンは画家ユトリロの母親です。
自宅から職場まで片道10キロの道を毎日歩く
生涯独身を貫き、貧しい生活を送ったサティ。そんなサティの家には、電気も水道も通っていなかったと言われています。また、自分の作品報酬が高すぎると、「値段を下げるように」と言っていたそうです。そんなサティですが、シャンソンのピアノ伴奏のために片道10キロの道のりを、毎日徒歩で通い続けていました。長い道のりを徒歩で通っていたため、いざという時のために、護身用の金づちを常に持ち歩いていたそうです。
収集癖の持ち主
サティの死後、弟とサティの友人とで遺品整理をするためにサティの部屋に入りました。するとそこには、100本以上の雨傘と、床には大量のカードが所狭しと散乱していたそうです。またグランドピアノを2台重ねて置いていたらしく、上のグランドピアノの中には、開けられていない封筒でいっぱいだったという逸話も残されています。
宗教団体を立ち上げる
1891年〜1892年にかけて、神秘思想家のジョゼファン・ペラダンと交流するようになったサティは、ペラダンが主催する「薔薇十字騎士団」に入会し、公認作曲家に認定されました。その後ペラダンと物別れになり薔薇十字騎士団を脱退したサティは、今度は自身で「導き手イエスの芸術教会」を興(おこ)しますが、信者はサティただ1人だけだったそうです。
プラダンとの交流によって作曲されたのが「星たちの息子」です。元々はフルートとハープのための前奏曲でしたが、のちにピアノ曲に編曲されました。
死因は?
大のアルコール好きだったのか、ストレスのためかは不明ですが、サティは59歳でこの世を去りました。死因はアルコール中毒による肝硬変と言われています。早くに母親を亡くし生涯独身であったサティは、もしかしたら寂しさをアルコールによって紛らわせていたのかもしれません。しかし、サティの死後、弟や友人数名が部屋の片付けに訪れたことから、決して孤独というわけではなかったようです。
まとめ
いかがでしたか?今回はエリック・サティの生涯についてご紹介しました。「変わり者」と言われたサティは、その評判に劣らず驚くようなエピソードばかりです。しかし、サティの音楽はどこか瞑想めいた、静かで心安らぐ作品が多いのも特筆すべきところです。ユーモアと内省的な作品を聞いてみたい方には、サティの作品はうってつけだと思いますので、ぜひサティの音楽を聞いてみてください。
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