エンリケ・グラナドスってどんな人?出身やその生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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今回は近代スペインを代表する作曲家、エンリケ・グラナドスの生涯を解説します。スペインの作曲家といえばマヌエル・デ・ファリャを思い浮かべる方も多いと思いますが、グラナドスもスペイン国民楽派を代表する人物として、現在でも世界中の人々に親しまれています。悲劇的な事件に巻き込まれ、48歳という若さでこの世を去ったグラナドスは、どのような音楽家人生を歩んだのでしょうか。今回は、エピソードを交えつつその人生にせまります。

エンリケ・グラナドスの生涯


グラナドスはどのような生涯を送ったのでしょうか。
音楽家として大きな成功を収めましたが、その人生の終わりは意外な幕引きとなりました。

音楽の申し子として

エンリケ・グラナドスは、1867年にスペインのカタルーニャ地方に位置するレリダという街に生まれました。父はキューバ出身の軍人で、その関係でグラナドスはカナリア諸島で幼少期を過ごします。カナリア諸島での生活は、グラナドスの人生に強いインパクトを与えたようで、後に「子供時代の楽園」と当時を振り返っていたそうです。

病弱だったグラナドスは学校に通えなかったものの、その分音楽の勉強に集中し、瞬く間にその才能を開花させます。その後、一家でバルセロナに引っ越すと、グラナドスは16歳でリセウ高等音楽院(現バルセロナ音楽院)に進学。コンクールで首席になるなど、大きな注目を集め始めます。

またこの頃、フェリペ・ペドレルに作曲を師事したことをきっかけに、グラナドスはスペインの民族音楽に目覚め始めます。
リセウ高等音楽院卒業後、グラナドスはさらに音楽の理解を深めるためにパリへ向かいますが、腸チフスにかかり、パリ音楽院への入学は断念されました。

ピアニストデビュー

そして1889年、バルセロナに帰国したグラナドスは、グリーグの『ピアノ協奏曲』でピアニストデビュー。演奏活動を行うかたわら、作曲家としても本格的に活動を開始し、25歳の若さで代表作『スペイン舞曲集』を発表。気鋭のピアニスト・作曲家として人気を博します。

また1904年には、マドリード王立音楽院が主催する作曲コンクールにおいて、審査員全員一致で優勝し、このことがグラナドスの名声をさらに高めるきっかけとなりました。余談ですが、同コンクールにはファリャも作品を応募しており、審査員賞を受賞しています。

ピアニスト・作曲家として成功を収めたグラナドスは、ウジェーヌ・イザイやジャック・ティボーといった同時代の演奏家たちとも共演し、フランスからレジオンドヌール勲章を受賞するなど、ヨーロッパ各地で絶賛を浴びます。

アメリカでも大成功

やがてグラナドスの評判は海を越えてアメリカへ伝わります。ピアノ組曲『ゴイェスカス』の成功を受けたグラナドスは、同作をオペラ作品に改編し、パリでの初演を試みるものの、第1次世界大戦の影響により計画は中止となります。

しかし、上演中止にいち早く反応したのがアメリカのメトロポリタン歌劇場でした。
歌劇場はグラナドスにアメリカでの上演を持ちかけると、1911年1月に初演を迎えたオペラ『ゴイェスカス』は大成功を収めました。

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その際、チェリストのパブロ・カザルスとも出会い、リハーサルをともに行ったと言います。そして同年3月、グラナドスはスペインへの帰路につきますが、英仏海峡を渡航中にドイツ軍の魚雷攻撃を受け、この世を去りました。享年48歳という若さでした。

性格を物語るエピソードは?

グラナドスのエピソードについて紹介します。インスピレーションを受けると、所構わず作曲に没頭したそうです。

とにかく船が大嫌い

詳しい理由はわかっていませんが、グラナドスは大の船嫌いだったと言われています。
ある日演奏会のために、マジョルカ島へ向かった時のこと。恐怖に怯えるグラナドスは、終始船室に閉じこもり、「早くつかないのか」と言わんばかりに時計を見続けていたそうです。

その後なんとか無事にバルセロナに戻ったグラナドスですが、「もう2度と船には乗らない!」と友人に打ち明けたと伝えられています。

作曲に無我夢中になる

グラナドスは、温厚で慈悲深い人物として人々から慕われていました。
ところが、作曲となると人格が変わったかのように五線譜に向かったそうです。ときには外出先で浮かんだメロディーを忘れまいとするため、シャツの袖に音符を書きつけたり、レッスン中に思いついた旋律を、生徒そっちのけで夢中になって演奏したりしたとのこと。

音楽に対するグラナドスの情熱と感性が伝わるエピソードですね。
そんなグラナドスについて友人のパブロ・カザルスは「グラナドスこそ、もっとも本質的な創造者である」と賞賛しました。

悲劇的な最後

オペラ『ゴイェスカス』のアメリカ公演が大成功を収めたのち、グラナドス夫妻は乗船サセックス号でスペインへ向かいます(大の船嫌いだったグラナドスは、さぞかし帰るのを嫌がったことでしょう)。
船は順調にスペインに向かっていましたが、ロンドン経由で英仏海峡を渡る際に悲劇がおきます。

時代は第1次世界大戦の真っ最中。イギリスとドイツは敵対関係にありました。
そしてグラナドスが乗っていたサセックス号も爆撃の対象に・・・。
ドイツ軍潜水艦の機雷が着弾すると、船は真っ二つに大破しグラナドス夫妻はその犠牲となります。

一説によると、グラナドス本人は救命ボートに救出されたそうですが、沈みゆく妻を救うため、再度海に飛び込んだそうです。

まとめ

今回はエンリケ・グラナドスの生涯を解説しました。ピアニスト、作曲家、音楽教育者とした彼は、ファリャやアルベニスと同様に、20世紀初頭のクラシック音楽に大きな旋風を巻き起こしました。そして、スペインの情熱とロマン派情緒を融合させたその旋律は、現在でも多くの人々に愛されています。
もしグラナドスが事故に合わなければ、きっとさらに素晴らしい作品を残したに違いありません。これまで彼の作品を聴いたことがない方も、この記事をきっかけにぜひ美しい世界観に触れてみてください。

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