ジャック・オッフェンバックってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Jacques Offenbach

ジャック・オッフェンバックの代表作といえば、なんといっても「天国と地獄」が挙げられます。オッフェンバックの名前や作品名を聞いたことがなくても、日本人なら誰でも運動会の徒競走などで一度は聴いたことがあると思います。日本では「天国と地獄」ばかりが有名ですが、オッフェンバックは生涯で100以上の舞台作品を作曲したことから、「オペレッタの父」と称される人物です。そんなオッフェンバックの人生はどのようなものだったのでしょうか。今回はオッフェンバックの生涯について解説します。

オッフェンバックの生涯について

オッフェンバックはどのような人生を送ったのでしょうか。時代ごとに簡潔に解説します。

ケルンでの少年時代、そしてパリへ移住

ジャック・オッフェンバックは、1819年、プロイセン王国領(現ドイツ)のケルンで生まれました。オッフェンバックという名前は、父親の出身地であるオッフェンバッハ・アル・マインから付けたペンネームで、本名はヤコブ・レヴィ・エーベルストといいます。

7人兄姉の末っ子として育ち、母からチェロとヴァイオリンの手ほどきを受けたオッフェンバックは、早くから音楽的才能の片鱗を見せたと言われています。また、同じくヴァイオリンを習っていた兄のユリウス、ピアノ弾きだった姉のイザベラとともトリオを組み、ケルンの酒場で演奏を披露することもあったそうです。

早くから音楽的才能を発揮したオッフェンバックは14歳の時に父とパリへ移住し、パリ音楽院にて本格的に音楽を学び始めます。当時、外国人がパリ音楽院に入学するのは困難とされていましたが、作曲家ケルビーニの推薦を得て入学が許可されました。

チェロ奏者として注目される

パリ音楽院に入学したオッフェンバックですが、学校が肌に合わなかったのか、なんとわずか1年で音楽院を退学してしまいます。中退後はオペラ・コミック座専属のチェリストとして活動し、チェリストとして研鑽を重ねました。またこの頃、作曲家ジャック・アレヴィに作曲を師事したことをきっかけに、甥のジャック・アレヴィと知遇を得ています(2人はのちに数々の名作を生み出す名コンビになります)。

チェリストとして活躍する一方、作曲家としての道も模索していたオッフェンバックは、1939年に「パスカルとジャンポール」を作曲。しかしこれはヒットとならず、以降8年間はチェリストに専念します。チェロの技術は一流だったそうで、サロンでは「チェロのリスト」と称される程の腕前でした。楽団のチェリストとしてドイツやイギリスなどを周ったオッフェンバックは、その間オペレッタの研究にも取り組み、フランス帰国後はコメディ・フランセの指揮者に就任します。

劇場経営者となりオペラ・ブッフで大成功

1855年、パリ万国博覧会の開催をきっかけに、オッフェンバックはパリのシャンゼリゼ通りにブッフ・パリジャンを開き劇場経営を開始します。収容定員300人程度の小規模な劇場だったため、開始当時の演目はパントマイムや手品、ダンスショーなど規模の小さい演目が多かったそうです。しかし柿落としで上演した1幕の小オペラ「二人の盲人」が大ヒットとなり、満員御礼のロングランを記録します。

「二人の盲人」の成功により大衆から認知を得たオッフェンバックは、劇場をシャンゼリゼ通りからショワズール小路に移し、「地獄のオルフェ(天国と地獄)」や「市場の婦人がた」などを発表。作品を上演する上でいくつか制約があったものの、これらの作品は大成功を収め、オッフェンバックの名声はさらに高まりました。

1864年、足枷となっていた劇場の制約が無くなり自由化されると、新しい劇場もオペレッタに参加し始め、オッフェンバックの人気は絶頂を迎えます。「美しきエレーヌ」や「パリの生活」、「青髭」、「ラ・ペリーコル」といった代表作が発表されたのもこの頃で、黄金時代を築いたオッフェンバックは「オッフェンバキアード(オッフェンバックの時代)」と呼ばれ、時代の寵児としてもてはやされました。

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フランス第二帝政時代はまさに「オッフェンバックの時代」と言っても良いかもしれません。しかしそんな時代も長くは続かず、普仏戦争が近づくとともに、オッフェンバックの人気は次第に影を潜めるようになりました。

借金に追われ財産を失う

普仏戦争に敗北し、フランスが第三共和政に突入すると、オッフェンバックは「(フランスの)道徳を低下させた」作曲家として糾弾されるようになります。黄金時代とは真逆の評価となったオッフェンバックでしたが、1873年、ゲテ座の支配人に就任し「ラ・ペリコロール」や「地獄のオルフェ」の新バージョンを上演することで再起を計ります。しかし、翌年1874年に発表した「憎しみ」が失敗に終わり、ついに破産を余儀なくされてしまいました。1876年にはゲテ座も辞任し、財産の一部も処分するという窮地に追いこまれます。

その後、損失を補うためにアメリカに活路を見出したオッフェンバックは、ニューロークやフィラデルフィアなどに赴き、40回に及ぶ演奏会を開催します。この時の様子はオッフェンバックの著書「ある音楽家の旅行記」にまとめられており、これにより当時のオッフェンバックの境遇が窺い知れます。

傑作を残した晩年

晩年になっても経済的困窮は続き、持病の痛風に悩まされながらも10年間で40曲ものオペラを作曲したオッフェンバック。アメリカから帰国したオッフェンバックは、最後の傑作「ホフマン物語」の作曲に取り掛かります。その間、「地獄のオルフェ」の再演が好評となりましたが、依然として経済的困窮は解決せず、1880年、オッフェンバックは61歳でこの世を去りました。未完となった「ホフマン物語」は、エルネスト・ギローによって補筆され、完成となりました。死因については残念ながら詳しい原因はわかりませんでした。

オッフェンバックにまつわるエピソードについて

オッフェンバックのエピソードについて紹介します

時代の寵児としてのオッフェンバック

フランス第二帝政時代に爆発的人気を誇ったオッフェンバック。オッフェンバックのオペラ・ブッフは、当時のフランスの社会情勢や権力、娼婦、金権政治を揶揄するものとして、大衆から絶大な人気を獲得しました。このことから、オッフェンバックは「人々が求めているもの」を鋭敏に察する能力が高かったことがわかります。

ヨハン・シュトラウス2世の窮地を救う

同時期にウィーンで大活躍していたヨハン・シュトラウス2世。しかしあまりの多忙さと、身内の死を経験したシュトラウス2世は、作曲の意欲を失います。しかしそんなシュトラウス2世に「オペレッタ」を作曲するように助言を与えたのはオッフェンバックでした。オッフェンバックの助言でオペレッタに目覚めたシュトラウス2世は、「こうもり」などの代表作を次々と発表し、見事再起を果たします。もしオッフェンバックがいなければ今日のシュトラウス2世の傑作は生まれなかったかもしれませんね。

まとめ

いかがでしたか?今回はオッフェンバックの生涯について解説しました。一時期は黄金時代を築いたオッフェンバックでしたが、普仏戦争やフランス国内の政治情勢により、その人生は波瀾万丈だったようです。それでも生涯で100以上の舞台作品を作曲したのは驚異的であり、残されたいくつもの傑作が今日でも上演されています。オペラを聴くのは敷居が高いと思われている方は、序曲や歌曲などでオッフェンバックの作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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