出典:[amazon]<ダイレクト・カットSACD>《ハイドン交響曲集Vol.6》交響曲第39番、第61番、第73番「狩り」
1732年に誕生したハイドンは、古典派を代表する作曲家として知られています。「交響曲の父」という呼ばれ方もしますが、このフレーズに聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。これは、作曲された交響曲が100曲を超えていることから、そのように呼ばれているそうです。
生涯
ハイドンは音楽の授業などでも取り上げられやすい作曲家だと思いますが、ベートーヴェンやモーツァルトに比べると、作品名までは出てこないという方が多いかもしれません。しかし、実は作曲した作品のメロディーが、国歌として使われている国もあるほどの作曲家です。
幼少期から青年時代
ハイドンが音楽の勉強を始めたのは6歳のころで、音楽学校の校長先生に才能を認められたことがきっかけだったとされています。そして聖歌隊に所属すると、9年程そこで働いていたようですが、声変わりによって続けることができなくなってしまい、解雇されてしまいました。
そして本格的に作曲の勉強をするようになりましたが、しばらくは定職に就かずに、演奏者としての活動で収入を得ていたようです。
作曲家としての活動
しばらくして、モルツィン伯爵のところに勤めることになると、交響曲としては最初の作品が作曲されています。
しかしモルツィン伯爵のところは、伯爵側の経済的な事情により、解雇されてしまうことになりました。すると今度は、エステルハージ家の副楽長としての職に就くことになります。ハイドンは、ここでもたくさんの作曲を行いました。
また最初は副楽長でしたが、楽長だったグレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナーが亡くなったことで楽長になったようです。
ハイドンの人気は、エステルハージ家で働いている間に、外でも高まっていきました。そのため、他からの依頼で作曲することも増えていったようです。
そして約30年エステルハージ家で働いたのですが、エステルハージ家の侯爵が亡くなると、後を継いだ侯爵は音楽に全く興味が無い人物だったため、そこの仕事から離れることになります。しかし年金を受け取ることになったので、作曲だけに専念できるという意味では、良い期間だったとも言えるようです。
イギリス訪問からそれ以降
イギリスを訪れると、ハイドンは自身の作品でたくさんの収入を得ることができました。またその期間には、現在の有名曲がいくつも作曲されています。
しかし、イギリスには留まらずウィーンに戻ると、再び当主が変わったエステルハージ家の楽長として働くことになりました。この時の当主は宗教曲が好きだったため、ハイドンはしばらく作曲していなかった、ミサ曲の作曲を行っています。そして60歳を過ぎたハイドンは、現在代表的な作品になっているいくつものミサ曲を生み出しました。
しかし70歳を超えるころ、作曲を行うことができなくなってしまうほど体調が悪化すると、最後の作品は未完成のまま世に出されます。そして1809年、ハイドンは77歳で亡くなってしまいました。
ちなみに、1809年といえばメンデルスゾーンが誕生した年で、その翌年にはショパンが生まれています。ハイドンは、現在よく知られている作曲家たちの大先輩にあたる人物でした。
エピソード
ハイドンのエピソードから、特に印象的で有名なものを3つ紹介します。
1.遺体にまつわる話
ハイドンの遺体に関しては、少し怖い話があります。
なんと、ハイドンが亡くなってから約150年の間、遺体の胴体と頭が別々の場所にあったそうで、その頭蓋骨には怪談話が残されていました。別々になっていた理由としては、最初に頭蓋骨を持っていた人物がハイドンを崇拝していたことから、頭蓋骨の研究をしていたとされています。
2.結婚
ハイドンは結婚をしていましたが、相手は悪妻として有名なマリア・アンナ・ケラーでした。1700年代のことなので、エピソードがどれほど正確なものかはわかりませんが、もしそれが本当だったら衝撃的過ぎると感じたものを1つあげると、なんとマリアはハイドンが作曲した楽譜の紙を、野菜や料理の包み紙として使用していたとされています。
ハイドンの音楽には全く興味がなかったように感じるエピソードですが、同じようなエピソードは他にもいくつか残っています。
3.モーツァルトとの交流
50歳前後ではモーツァルトとの交流が始まり、良い関係はモーツァルトが亡くなるまで続いたそうです。また、モーツァルトからハイドンへ献呈された作品もありました。
ハイドンの人物像
エピソードから分かる性格
ハイドンは、エステルハージ家の楽団員が長期間にわたって家に帰れなくなっていた際に、作品で侯爵へ要望を伝えようとしました。その時に作曲されたのが、交響曲「告別」だったそうです。
この作品には、演奏中に奏者が次々と席を立ち、その場から退場していってしまうという演出が付いています。この様子から、団員たちの意図を察した侯爵は休みを設けました。
ちなみに現在でも、作品の演奏の際には、そのような演出をされることが多いようです。
このエピソードだけでも、ハイドンは周りに優しい人物だったということがわかりますが、それ以外のエピソードからも、やはりとても優しく慕われる人物だったということが考えられます。
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