20世紀の芸術運動に多大な影響を与えたアントン・ヴェーベルン。1883年12月3日、オーストリアのウィーンで生まれた彼は、アルノルト・シェーンベルクに師事したのち、アルバン・ベルクらと共に新しい音楽様式を生み出しました。無調や12音技法を確立した彼らはのちに「新ウィーン楽派」と称され、ジョン・ケージやブーレーズといった前衛芸術家を生み出すきっかけにもなったと言われています。そこで今回は、「新ウィーン楽派」の中心人物であるアントン・ヴェーベルンの生涯について解説します。
アントン・ヴェーベルンの生涯
ヴェーベルンの生涯について解説します。新時代を切り開いたヴェーベルンですが、生前はあまり評価されなかったようです。
オーストリアのウィーンに生まれる
アントン・ヴェーベルンは、1883年にオーストリアのウィーンに生まれました。一族のルーツをたどると、彼の先祖はクロアチアに領地を持つ貴族の家系だったようで、父の事業の成功も相まって、裕福な少年時代を過ごしています。音楽環境にも恵まれたヴェーベルンは、母からピアノの手ほどきを受け、幼少の頃からその楽才を発揮しました。また、チェロの演奏にも才能を見せ、14歳の頃には地元オーケストラのチェリストに抜擢されるほどの腕前だったと言います。
1902年にウィーン大学に進学したヴェーベルンは、著名な音楽学者グイード・アドラーから音楽学を学び、その後1904年、シェーンベルクから作曲を学ぶ機会を得ます。この頃のヴェーベルンはワーグナーやマーラー、リヒャルト・シュトラウスなどの後期ロマン派の作曲家たちに心酔しており、とりわけワーグナーへの憧れは、生涯失わなかったそうです。
シェーンベルクからの卒業後
紆余曲折を経て、シェーンベルクの許で作曲を学んだヴェーベルンは、4年間にわたる勉強の末、作品番号1番『管弦楽のためのパッサカリア』の制作により作曲家として独立を果たします。
しかし、作曲家として独立を果たしたのは良いものの、作曲のみ生活することは難しく、当時のヴェーベルンはポーランドやプラハといった地方都市の指揮者として生計を立てていました。1919年、シェーンベルクを補佐する形で「私的演奏協会」の設立に携わり、ラヴェルやドビュッシー、ストラヴィンスキーなどの同時代の作曲家の知見を得ています。
同時代の作曲家に対して、ヴェーベルンがどのような反応を示したのか気になるところですが、残念ながらそれらの証言は得られませんでした。
その後、1922年から1934年までの12年間に渡りウィーン労働者交響楽団の指揮を務めた他、BBC交響楽団やウィーン放送の客員指揮者をこなしたヴェーベルン。しかしナチス・ドイツにより「退廃音楽」のレッテルが貼られたことにより、以降自作の演奏活動が不可能となります。
自作の演奏が出来なくなったヴェーベルンは、出版社の編集者や校閲係として生計を立てていたそうです。戦前という時代背景もありますが、ヴェーベルンにとっては辛い時代を過ごしたことでしょう。
1945年に第2次世界大戦が終戦すると、ヴェーベルンはザルツブルク郊外に住む娘の家に避難します。ところが、これによりヴェーベルンは娘婿に関わる事件に巻き込まれ、1934年9月15日にこの世を去りました。享年61歳でした。ヴェーベルンの作品群は戦後の前衛音楽の発展に大きな影響を与え、新しい時代に羽ばたくこととなります。
性格を物語るエピソードは?
ヴェーベルンはどのような人物だったのでしょうか。エピソードを調べてみると、彼は繊細で真面目な性格だったようです。
繊細な一面
1928年、ニューヨークのコンポーザーズ・リーグから交響曲作曲の依頼を受けたヴェーベルン。ほどなく作品は完成し、翌1929年にフィラデルフィアにて初演を迎えます。無事に演奏は終えたものの、作品をまったく理解できない聴衆から嘲笑を浴びたヴェーベルンは、失意の底に沈んだと伝えられています。
当時のアメリカがクラシック後進国だったとはいえ、さすがにこれには心が折れたことでしょう。
友人思いなヴェーベルン
シェーンベルクを通じてアルバン・ベルクと知り合ったヴェーベルン。言ってみれば、ヴェーベルンはベルクの兄弟子であり、2人は生涯にわたり親交を深めることとなります。
お互いに切磋琢磨しながら作品を生み出した2人でしたが、1935年、ベルクに突然の不幸が襲います。
50歳の若さでこの世を去った友のため、ヴェーベルンはベルク自らが作曲した『ヴァイオリン協奏曲』の世界初演に臨みますが、今は亡き友人を思い、練習できる状態になかったと言われています。
悲しすぎる死因
指揮棒で足をつついたことによりこの世を去ったジャン=バティスト・リュリや、虫刺されが原因で敗血症となり亡くなったアルバン・ベルクなど、作曲家の中にも不運な最後を遂げた人物はいるものです。しかしもしかすると、アントン・ヴェーベルンも非業の死を遂げた作曲家の1人かもしれません。
終戦後、戦禍を逃れるためにザルツブルク近郊に住む娘の家に滞在したヴェーベルン。ひとまず安心かと思いきや、これが彼の運命を不幸なものへ導きます。実は避難先の娘婿が元ナチス親衛隊のメンバーであり、さらには闇取引に関与していることが判明。
そして1945年9月15日、タバコを吸うためベランダに出て火をつけたヴェーベルンでしたが、この火が「闇取引の合図」の誤解を受け、在オーストリア米兵によりその場で射殺されてしまいます。もちろんヴェーベルンは闇取引とは無関係であり、純粋な誤射でした。20世紀に名を残した前衛作曲家はこうしてあっさりと人生の幕を閉じることとなりました。
まとめ
今回はアントン・ヴェーベルンの生涯について解説しました。寡作な作曲家として知られるヴェーベルンですが、せめてもう少しでも長く生きてくれれば、違った作品を聴けたのではないかと悔やまれます。この記事を機会に、ヴェーベルンを含む「新ウィーン楽派」の作品にぜひ触れてみてください。
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