クラシック音楽の女性作曲家、誰か知っていますか?
クラシック音楽で女性の作曲家、と言われて誰の名前を思い浮かべますか?
おそらく最も多く挙がりそうなのは、夫婦共に名が知られたクララ・シューマンあたりでしょうか。あるいは、メンデルスゾーンの姉であるファニー・メンデルスゾーンや、『乙女の祈り』で著名なテクラ・バダジェフスカも候補に入るかもしれません。
では、名前を思い浮かべられた方にさらに質問です。その女性の作曲家によって作曲された曲を、いくつご存知でしょうか?
上記の3人でも、複数の曲を挙げるのはなかなか難しいかもしれません。
有名なクラシックの作曲家はなぜ男性ばかりなのか
かくいう私も、上記三人の名前を知っている程度で、曲はあまり聞いたことはありませんでした。
女性が作曲したクラシック音楽は近年になってやっと演奏される機会が増えてきたようですが、やはりまだ演奏会や音源は非常に少ない状況です。
なぜ有名なクラシックの作曲家は男性ばかりなのでしょうか?
そもそも女性の作曲家たちの認知度が低く、市場に流通しづらい他、歴史的・社会的な背景として女性が職業音楽家として活躍することが認められて来なかったことが大きいといいます。
ヨーロッパの音楽学校でも、19世紀まで入学基準で男女を差別する傾向があり、女性が作曲を満足に学べる環境はごく最近まで整ってなかったようです。
では女性の作曲家はごく少数なのか、というと、そんな事はありません。
少しデータが古いですが、1981年にアメリカで刊行された『国際女性作曲家百科事典』(International Encyclopedia of Women Composers)では、世界70カ国、紀元前の時代から現代に至るまで6000名を超える女性作曲家のプロフィールや代表的な曲が掲載されています*。
有名でない、というだけで、これまでの歴史にも女性の作曲家は大勢いたのです。
その中のほんの一部ですが、今回は最初にあげた人物以外の女性の作曲家を、3人ご紹介します。
彼女たちは一体どんな時代に生き、どんな音楽を作ったのでしょうか。
*『国際女性作曲家百科事典』はクラシック音楽だけではなく、エジプトに始まる古代音楽からアラビア音楽・ハワイ音楽など時代・ジャンルを問わず女性作曲家を網羅しています。
女性作曲家たちの紹介
フランチェスカ・カッチーニ(1587 – 1630?もしくは1641? )
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フランチェスカ・カッチーニはイタリア・バロック期の歌手・作曲家です。
歌から楽器の演奏・作曲・作詞までこなす才女であり、彼女が手掛けた歌劇『ルッジェーロの救出』は女性が作曲した史上初のオペラ作品となりました。
生涯
フランチェスカ・カッチーニ(以下カッチーニ)はフィレンツェに生まれました。
父は声楽家・作曲家のジュリオ・カッチーニ、母・ルチア・ガニョランティも声楽家という音楽一家であり、妹のセッティミアも声楽家・作曲家*になっています。
また弟のポンペオも声楽家で、父の制作したオペラでテノールを演じていた他、フィレンツェのサンタ・トリニータ教会にある「聖ルチアの殉教」を描くなど画家としても活躍しました。
カッチーニは幼いころから当時最先端の音楽を直に学べる環境にあったようです。
父ジュリオはメディチ家専属の歌手で、当時の知識人が集う音楽サークル「カメラータ」の代表的なメンバーでもありました。この「カメラータ」は古代ギリシャの劇音楽の復活を試みる団体で、オペラを誕生させるきっかけとなります。
また、ジュリオは教師として数十人の弟子をプロの歌手に育て上げており、子どもたちもまた同様に父親の教育を受けていました。
1600年、彼女が13歳の時には母や妹とともに一家で歌手として、現存する最古のオペラ『エウリュディケ』(ヤコポ・ペーリ)や父の歌劇『セファロの強奪』で舞台に立ちました。さらにその4年後には海外で公演を行い、いくつかの都市を回ったのちフランス王ヘンリー4世の宮殿の演奏会に出演、王に歌唱力を絶賛されています。
カッチーニは父同様メディチ家に仕え、メディチ家子女の教師をはじめ、室内歌手、楽器の演奏者、舞台音楽の制作者と多数の役割を担っていました。1614年にはメディチ家で雇われている音楽家では最も高給取りになっています。
歌手としての活躍が目立ちますが、メディチ家に務め始めた1607年には宮廷の依頼で曲を書いていたようです。
しかしそれを含めたほとんどが散逸し、現存するのは歌劇『ルッジェーロの救出』と2つの歌劇の断片・歌曲集1冊と数曲の小品のみです。
彼女の作品の多くは宮廷の子女の教育のために書かれましたが、一部だけの作曲も含めれば歌劇は16もの作品に関わったといいます。
晩年のカッチーニについてはよくわかっておらず、1641年にメディチ家を辞めたあとは何らかの記録は残されていません。またその十年前には亡くなっている説もあります。
『ルッジェーロの救出』
オペラ最初期の作品でありながら、初めて女性が作曲したオペラであり、また初めて海外で公演された作品でもあります。
この作品のもとになったのは中世の大ベストセラー叙事詩『狂えるオルランド』で、その中でもオペラの題材に人気のあるエピソードです。気に入った男をたぶらかしては動植物に変えてしまう魔女アルチーナの島に囚われた騎士・ルッジェーロが、魔女メリッサの手助けで島から脱出するさまを描いています。
Francesca Caccini, Mauro Borgioni, Allabastrina, La Pifarescha, Elena SartoriのLa liberazione di Ruggiero dall’isola di Alcina https://open.spotify.com/album/0cqSOSMTtpuaGuZkQjnlMv?si=37iWgyNXQbqL6b_Yg6nJ5A
*セッティミア・カッチーニの曲は8つが現存しています。多数の曲を制作したようですが、ほとんどが失われました。
エミリー・マイヤー (1812 – 1883)
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エミリー・マイヤーはドイツ・ロマン派の作曲家です。
ワーグナー・メンデルスゾーン・シューマンなどほぼ同年代の有名な音楽家と接触があったわけではないようですが*、そのドラマティックな音楽にはロマン派の特徴がよくあらわれています。
生涯
マイヤーはドイツ北部の小さな町・フリートラントの裕福な薬剤師の家庭に生まれました。
5歳の時にオルガニストであり音楽教師のカール・ドライバーのもとでピアノを習いはじめ、最初の年には小さなワルツや変奏曲を作曲し始めたといいます。
その後も作曲を続けていたようですが、本格的に勉強を始めるのはマイヤーが26歳のときです。
父親が拳銃自殺、続いて長いこと彼女の教師であったカール・ドライバーも亡くなるという不幸が続いたこともあり、マイヤーは故郷のフリートラントを離れて、近くの都市シュチェチン(現在ポーランド領)に移ります。
そこで、声楽曲を500以上作曲し「北ドイツのシューベルト」の異名もあるカール・レーヴェに出会い、彼の指導の元で、歌曲、室内楽、序曲などの制作に取り組みました。
さらに1876年にはベルリンでフーガと二重対位法をアドルフ・ベルンハルト・マルクスに、器楽をヴィルヘルム・ヴィープレヒトに学んでいます。二人の教師の後押しでブリュッセル、リヨン・ライプツィヒなどでマイヤーの作品を発表するコンサートが企画され、各地で成功を収めます。
作品が発表されるのはマイヤーのプライベートなサロン内が多かったようですが、プロイセン王国のエリザベート王妃やその妹・オーストリアのソフィー大公妃など当時の権力者の前でもマイヤーの曲が披露され、その縁でミュンヘンフィルハーモニーの名誉会員とベルリンのオペラ・アカデミーの副館長にも任命されました。
当時はまだ男性優位の社会であり、コンサートのたびに新聞などで「女性が作曲する」事の批判が載る事もありましたが、彼女は意に介さず作品を発表し続けます。
彼女は生涯独身でしたが、弟のアウグストをはじめとした家族・親戚や友人などの後援者にも恵まれ、曲の多くは彼らに捧げられました。
ロマン派真っ只中の時代を生きたマイヤーは、1883年にベルリンで亡くなります。70年近くの生涯で、130の歌曲、8つの交響曲、11のピアノ三重奏曲など膨大な数の曲を作曲しました。しかし出版されたのが少数なのもあってか、それらの曲は彼女の死後に急速に忘れられていきます。
『交響曲7番』
マイヤーは交響曲を8つ作曲していますが、このうち5番と8番は失われたと推定されています。
Dreyer Gaido社から出されたこちらの音源は交響曲5番と紹介されていますが、実際は7番のようです。
この交響曲は出だしからすこし物悲しくもエネルギッシュなメロディーで曲が展開されます。マイヤーの曲はこうした力強さにあふれるものが多いのが特徴です。
Mayer: Symphony No. 5 – Mendelssohn: Hero und Leander – Le Beau: Piano Concerto, Op. 37 https://open.spotify.com/album/2UlDf1XMRex62edjitbN2t?si=m9_1FghmSuaYe3Fm0T7rLg
* カール・レーヴェはマイヤーとほぼ同年代のショパンと出会っていたようですが、マイヤーと接触があったかどうかは不明です。また、1858年にはマイヤーが弦楽五重奏曲のピアノ編曲をリストに依頼していますが、リストがそれを断る書簡が残っています。
ジェルメーヌ・タイユフェール (1892-1983)
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ジェルメーヌ・タイユフェールは20世紀に活躍したフランスの作曲家です。
ミヨーやプーランクら当時の気鋭の音楽家のみならずピカソ・モディリアーニ・チャップリンなどの文化人とも交流を持ち、優雅でありながら軽やかで美しい旋律は多くの人々を魅了しました。
生涯
タイユフェールはフランス、パリ郊外の街に生まれました。
幼いころから耳が良く、五歳の時にはモーツアルトを楽譜を見ずに弾き、小さな作品を作曲しはじめています。
才能あふれる彼女でしたが、音楽の道に進むことは父から強く反対されたため、父が仕事で不在の間だけ練習を行い、父に内緒でパリ音楽院に入学しました。
成績優秀だったのもあり、後に父に音楽を学ぶことは認められたものの、資金援助は拒否されたため、タイユフェールは学費を稼ぎながら学校に通いました。
その父への反感から本名のマルセル・タイユフェスから改名し、ジェルメーヌ・タイユフェールと名乗るようになります。
パリ音楽院在学中、タイユフェールはミヨー、オーリック、ホーネガーらと出会い、週末には若い音楽家・芸術家たちとミヨーの家やモンマルトルなどで交流を行っていました。
このうちヴィユ・コロンビエ劇場で作品を発表していた6人が音楽評論家・作曲家のアンリ・コレの批評で「フランス6人組」の名称で取り上げられ、デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、プーランク、オーリックの名を一躍有名にしました。
「フランス6人組」は自ら名乗ったグループ名ではなく、個々の作風や音楽性も違っていたため、ピアノ曲集『6人組のアルバム』とコクトーの台本のバレエ音楽『エッフェル塔の花嫁花婿』の後はグループでの活動はほとんどありません。
1923年にタイユフェールはラヴェルに作曲とオーケストレーションの指導を受けます。ラヴェルは彼女の才能を高く評価し、作曲家登竜門・ローマ賞の受験も勧めますが、タイユフェールはアメリカ人との結婚で1925年にニューヨークへ移住してしまいます。
その後も第2次世界大戦中を除き、タイユフェールは生涯を通じて活発に作曲活動を続けました。
1度目の結婚生活は3年で終わり、2回目の結婚もうまくいかず、1950年代には経済的に苦しい時期が続いたようですが、ピアノ曲を中心に、小編成のアンサンブルから大編成のオーケストラ・オペラまで膨大な数を作曲しています。また、それにとどまらず映画音楽やテレビ音楽も手掛けました。
タイユフェールは1983年にパリで亡くなります。彼女が作曲した曲は総計200近く、第2次世界大戦などで失われたものもの含めればさらに多いと考えられています。
『ハープ協奏曲』
1927年に作曲されたハープ協奏曲です。優雅ながらどこか爽やかさもあるオーケストラのメロディと高い技巧で奏でられるハープの調和が美しい曲です。
タイユフェールはパリ音楽院のハープ科助教授カロリーヌ・タルデューのために書いた『タルデュー夫人のためのハープ小曲集』やソロのハープソナタなどハープの楽曲を数多く作曲しています。
Nicanor Zabaleta, ベルリン・ドイツ交響楽団, Ernst Märzendorfer, Orchestre National de l’O.R.T.F., Jean MartinonのBoieldieu / Saint-Saëns / Tailleferre / Ravel: Harp Concertos
https://open.spotify.com/album/65xumDotf6kx6F0gsISYN8?si=KiANmfyzT-C6_ZP7yKBcmg
有名でなくても、女性は音楽史に欠かせない存在
女性の作曲家*に限らず、音楽史に名前を残した女性は他にも多数存在します。
大バッハ二番目の妻で多数の筆写譜を残したアンナ・マクダレーナ・バッハ。サリエリに師事しモーツァルトに曲を捧げられた盲目のピアニスト マリア・テレジア・フォン・パラディス。優れた教育者であり女性指揮者の草分けナディア・ブーランジェ……彼女たちがかかわった事で生まれた曲も多いはずです。
音楽サービスが発達しより多くの曲に触れる事ができる時代、私たちは定番の曲ばかりでなく、忘れられてきたこれらの人々やその音楽にこそ注目すべきかもしれません。
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